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過去の過ち

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有り難し有り難し 27

過去の過ちの罪悪感に苦しめられます。
学生時代のカンニング、万引き、無賃乗車(子供が小学生になってすぐ、料金を払わないで乗ってしまいました。)などです。
深く反省し、ここ何年間は悪いことはしないよう生きてきました。気にしすぎて、ゴミの分別が間違えてしまっていた事とか、小さな事でも気になるようになってしまいました。とにかく自分がやってしまった事が気になると言う感じです。
この事を夫が知ったら幻滅するだろうなとか考えると苦しいです。
また思い出した時にどのように考えれば気持ちの切り替えができますか?
出来れば分かりやすいお言葉で回答宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去の悪玉菌は現在の善玉菌あふれる行動で浄化✨

カマンベールチーズの作り方。
生乳を65度以下の低温で殺菌。冷ました生乳に乳酸菌とレンネット(子牛の胃の中にあるタンパク質を固める酵素)を加える。
丸型に入れ水分(ホエー)を排出させる。ほえー。🐋
一晩ほどたつと水分が抜けきるので取り出し塩をくわえ白カビを吹き付ける。
一週間ほどで表面が白カビでおおわれる。カビの発生をおさえながらさらに数週間ほど熟成させると完成する…のだそうです。

自然界にも共存していいカビがあります。
人間世界にも善玉菌と悪玉菌あり。
カマンベールチーズも、質問者のカマンベールチーズさんも悪玉菌・雑菌に覆われたアウトです。地球も同じ。日本も同じ。世界も同じ。カマンベールチーズさんが住んでいる地域も家庭も同じ。
どうぞこの世の心の善玉菌の活性化活動に協力してください。
日本の宗教精神はまだまだ低く先祖供養の段階にとどまっております。
ここでチーズの女王のカマンベールチーズさんにはチーズの女王として、いや、世の中の善玉菌の活性化・醸造に貢献して頂きたく今までの悪玉菌を糧として人生のアクション、言動、動作、随所に善玉菌を発生させるべく、行いをボサツ、ホトケ的な
常行を行なっていただければと思います。
過去の非や不徳は懺悔して、その後に誓願を立てることです。
仏教では四弘誓願文というお誓いがあります。
それをベースに自分の心にも人生にも世の悪玉菌の感染拡大をさせないように努力すればよいのです。なにもしないまま、そのままでは悪玉菌は増殖します。
過去の非や不徳を責めるよりは、今日の善意、善導精神を。人間性を高めて心を豊かにしようと志してみてください。おのずから行動が善玉菌ナイズします。すると随所に良いことをやらんでなんとする、という精神に代わっていくのです。
世の中はスカした人、やさぐれたひと、あばずれた人、悪意に染まった人ばかり。
だからこそ、善玉菌が必要なのです。ここであなたが「(TΘT)私はあの時あんなことをしてしまったと、やさグレタさんになってしまったらこの世の悪玉菌活動家として生きていくことなります。ほえー🐋

心の善玉菌カマンベールチーズの作り方。
1過去の不徳や非を誠実に詫び懺悔・反省。
2落ち込んでも心の悪玉菌が増えるだけなので心をより善く導く。
4四弘誓願文を念ずる。
5誓願や戒に従って生活。
テーマソング『それいけ善玉菌マン!』

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。
あまり考え過ぎるのは悪玉菌が増えるだけですね。善玉菌を増やせる生活をしていこうと思います。
ありがとうございました。

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