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無宗教に近い人間が仏像を作る事について

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はじめまして。唐突ですがほぼ無宗教の人間が仏像を作る事は罰当たり、または仏様への失礼にあたりますか?

海外でアート関係の仕事をしており、締め切りやミスなどによってストレスを感じる事が多く、最近ふと机に仏様の優しいお顔があれば落ち着いて作業ができるのではと思いました。

ただ現地で購入できるのはア◯ゾンや得体のしれないウェブサイトでの仏様ばかりで、ほとんど信仰心のない私としても不安です。

それならばアーティストである自分で制作すればいいのではと思ったのですが、文頭の通り勝手に作るのは大丈夫なのだろうかと気がかりです。しかも素材が木ではなくプラスチックのような物になってしまいます。

また仏教や仏像がほぼ無知識だったため色々とハスノハを含めて調べさせていただいたところ、開眼の儀やそもそも偶像崇拝ではない事などを知り余計に「落ち着きのある顔」を求めて側に置くのはよくないのかなとも思っております。

また完全に無宗教とは言えないので亡くなった父や祖父を思ってたまに開眼供養していないのに拝んでしまうかもしれません。インテリアとして割り切る事は難しいと思います。

日本にいつか帰国した時にちゃんとした仏像を購入できるかもしれませんが、それはそれで魂の入った仏像をあまり拝まないのは申し訳ないです。

この質問が仏様や僧侶の方、仏教徒の方への失礼にあたらないといいのですが、もしそうでしたら申し訳ありません。
よろしくお願いします。

2021年7月22日 18:20

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

畏怖・畏敬の念とは

現代日本の仏教では、彫ったり購入したりした仏像はまだただの美術工芸品で、仏壇とかしかるべきところに安置して坊さんにお経を上げて「魂を入れてもらって」初めて信仰の対象になる、などと言います。魂って何ですかね?坊さんはどこからそんなもの見つけて持ってくるんでしょうか?
 仏像を木や石に彫ったりするのは、まず、彫り師の技術と心のレベルが、そのお姿に如実に表れます。それで、同じく仏像といいながら、モノによって、何となくありがたがられたり粗末にされたりします。
 それでも、そのような彫り物のどれか一つを寺や家庭のどこかに据えると、何となく本尊みたいになって、元の出来不出来と別に、縁ある人が熱心に拝むようになったりほったらかしにしたりします。坊さんは、これをこの家庭・寺の本尊と認めるというセレモニーのためにお経をあげるのであって、坊さんがいなくても用は足ります。その代わり、要らなくなって処分するときも、何となく特別な気持ちをもって処分することが多いでしょう。
 スリランカや東南アジアでは型枠に石膏や粘土を入れて仏像を大量生産します。最初の型枠制作だけ気をつければ、あとはいくらでも作れます。こういうものは、そういう美術工芸品を家や寺に持ち込んでから、その家や寺の縁者が、初めて「仏像」にします。
 仏像の法則は、一つは、それを礼拝するこちらの心によります。誰が作ろうとも、誰がそれを本尊と決めようともただのアクセサリーにしようとも、こちらの心次第です。
 もう一つは、仏像の形にある程度の法則があります。32相80種好といわれるその法則通りに作ると、何となく落ち着きがあり、お姿が安定します。スリランカの最初の仏像といわれるサマーディブッダが、そのバランスが最もよく取れているといわれていて、型枠の大量生産品は、みんなそれをモデルにしています。
 そういうものや、ご自分でお気に入りの仏像などをモデルにして、お作りになると良いと思います。仏像は誰が作っても良いのです。創造物には作者の内面が出ますので、昔は精進潔斎してから彫るとかやっていましたが、やはり清らかな気持ちで取り組むと良いと思います。
 仏像や仏の写真・絵などは、どんな宗教や無宗教の人が見ても、一瞬、心が静まると言われています。わざわざ作らなくても、写真なら、古来の良いものがあります。それを家か仕事場の中心に貼るのも良いと思います。

2021年7月23日 8:35
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おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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32相80種好

百瀬さま

仏像は、如来のお姿を偶像化したものとなりますが、如来の場合は、32の相と80種の好の尊い相好が表されており、そのお姿を見るだけでも、また、礼拝するだけでも善い功徳を積むことになります。

それは、こちらに信心があるかないか、帰依心があるかないかを問わずであります。

それだけそのお姿の持っている力が強いものなのであります。

なんとなく惹かれるというだけでも、如来のお加持による仏縁の力であり、それにより、仏教についてより縁が生じていくことになれば、誠に有り難いことになります。

仏像を作るのはもちろん自由でありますが、その尊格を損なわぬように、どういったお姿が基本であるのか、どのようなお考え、教えを持っておられるのか、それをまず知られてからお作りになって頂けましたらと存じます。

お開眼はなさられるのが善いかとは存じます。

仏像を正式にお開眼・点眼することで、仏さまの分身(法身のお力、お加持のお力)を招来すれば、七支分、「礼拝・供養・懺悔・随喜・勧請・祈願・廻向」の対象としてお祀りすることができるようになるからであります。

もちろん、七支分をしない、仏さまのお加持のお力を頂かないとなりましたら、その必要性はありません。

川口英俊 合掌

2021年7月23日 7:16
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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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心を込めてお作り下さいね

拝読させて頂きました。
読ませて頂いて私はあなたが仏様を求めていらっしゃると感じました。あなたを守りあなたを支えてくれる存在として仏様を求めていらっしゃるのかと思います。
ですからあなたが全く信仰心がないとは思わないですし、あなたが仏様を作ってはいけないとはならないかと思います。
逆にあなたがそのように求める気持ちがあるならばぜひあなたなりの仏様のお姿をお作りなさってみて頂きたいと思います。作って試行錯誤していく中であなたの心の中で求める理想的な仏様のお姿が現れてくるでしょうし、そこにはあなたの思いも込められていくことでしょう。
時代時代に応じて或いは地域によっても仏様のお姿は様々にあります。それら一つ一つの仏様の像が人々が求めて信仰を持っていく姿なのかと思います。
ぜひとも仏様の像お作りなさってみて下さいね。また様々参考になる仏様の像があるかと思います。画像でも様々な仏様のお姿がネット上でも見れるでしょうから様々な仏様を参考になさってみて、あなたの理想的な仏様のお姿を具体的なさってみて下さい。
一つだけ、仏作って魂入れず、という言葉があります。
あなたの思いや願いも込められて仏様をお作りなさるでしょうから、可能ならば帰国なさった時にでもお坊さんに仏様の魂入れつまり開眼をお願いなさって頂ければとても善いかと思います。
そうすることであなた自身の心にも仏様のお姿が一層尊くなってくるでしょうし、あなたの心のよりどころとなり信仰心も芽生えてくるかと思います。
ぜひとも仏様をお作りなさって頂き、ご仏縁を結んで下さいね。

2021年7月23日 0:18
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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ