無宗教に近い人間が仏像を作る事について
はじめまして。唐突ですがほぼ無宗教の人間が仏像を作る事は罰当たり、または仏様への失礼にあたりますか?
海外でアート関係の仕事をしており、締め切りやミスなどによってストレスを感じる事が多く、最近ふと机に仏様の優しいお顔があれば落ち着いて作業ができるのではと思いました。
ただ現地で購入できるのはア◯ゾンや得体のしれないウェブサイトでの仏様ばかりで、ほとんど信仰心のない私としても不安です。
それならばアーティストである自分で制作すればいいのではと思ったのですが、文頭の通り勝手に作るのは大丈夫なのだろうかと気がかりです。しかも素材が木ではなくプラスチックのような物になってしまいます。
また仏教や仏像がほぼ無知識だったため色々とハスノハを含めて調べさせていただいたところ、開眼の儀やそもそも偶像崇拝ではない事などを知り余計に「落ち着きのある顔」を求めて側に置くのはよくないのかなとも思っております。
また完全に無宗教とは言えないので亡くなった父や祖父を思ってたまに開眼供養していないのに拝んでしまうかもしれません。インテリアとして割り切る事は難しいと思います。
日本にいつか帰国した時にちゃんとした仏像を購入できるかもしれませんが、それはそれで魂の入った仏像をあまり拝まないのは申し訳ないです。
この質問が仏様や僧侶の方、仏教徒の方への失礼にあたらないといいのですが、もしそうでしたら申し訳ありません。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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畏怖・畏敬の念とは
現代日本の仏教では、彫ったり購入したりした仏像はまだただの美術工芸品で、仏壇とかしかるべきところに安置して坊さんにお経を上げて「魂を入れてもらって」初めて信仰の対象になる、などと言います。魂って何ですかね?坊さんはどこからそんなもの見つけて持ってくるんでしょうか?
仏像を木や石に彫ったりするのは、まず、彫り師の技術と心のレベルが、そのお姿に如実に表れます。それで、同じく仏像といいながら、モノによって、何となくありがたがられたり粗末にされたりします。
それでも、そのような彫り物のどれか一つを寺や家庭のどこかに据えると、何となく本尊みたいになって、元の出来不出来と別に、縁ある人が熱心に拝むようになったりほったらかしにしたりします。坊さんは、これをこの家庭・寺の本尊と認めるというセレモニーのためにお経をあげるのであって、坊さんがいなくても用は足ります。その代わり、要らなくなって処分するときも、何となく特別な気持ちをもって処分することが多いでしょう。
スリランカや東南アジアでは型枠に石膏や粘土を入れて仏像を大量生産します。最初の型枠制作だけ気をつければ、あとはいくらでも作れます。こういうものは、そういう美術工芸品を家や寺に持ち込んでから、その家や寺の縁者が、初めて「仏像」にします。
仏像の法則は、一つは、それを礼拝するこちらの心によります。誰が作ろうとも、誰がそれを本尊と決めようともただのアクセサリーにしようとも、こちらの心次第です。
もう一つは、仏像の形にある程度の法則があります。32相80種好といわれるその法則通りに作ると、何となく落ち着きがあり、お姿が安定します。スリランカの最初の仏像といわれるサマーディブッダが、そのバランスが最もよく取れているといわれていて、型枠の大量生産品は、みんなそれをモデルにしています。
そういうものや、ご自分でお気に入りの仏像などをモデルにして、お作りになると良いと思います。仏像は誰が作っても良いのです。創造物には作者の内面が出ますので、昔は精進潔斎してから彫るとかやっていましたが、やはり清らかな気持ちで取り組むと良いと思います。
仏像や仏の写真・絵などは、どんな宗教や無宗教の人が見ても、一瞬、心が静まると言われています。わざわざ作らなくても、写真なら、古来の良いものがあります。それを家か仕事場の中心に貼るのも良いと思います。
32相80種好
百瀬さま
仏像は、如来のお姿を偶像化したものとなりますが、如来の場合は、32の相と80種の好の尊い相好が表されており、そのお姿を見るだけでも、また、礼拝するだけでも善い功徳を積むことになります。
それは、こちらに信心があるかないか、帰依心があるかないかを問わずであります。
それだけそのお姿の持っている力が強いものなのであります。
なんとなく惹かれるというだけでも、如来のお加持による仏縁の力であり、それにより、仏教についてより縁が生じていくことになれば、誠に有り難いことになります。
仏像を作るのはもちろん自由でありますが、その尊格を損なわぬように、どういったお姿が基本であるのか、どのようなお考え、教えを持っておられるのか、それをまず知られてからお作りになって頂けましたらと存じます。
お開眼はなさられるのが善いかとは存じます。
仏像を正式にお開眼・点眼することで、仏さまの分身(法身のお力、お加持のお力)を招来すれば、七支分、「礼拝・供養・懺悔・随喜・勧請・祈願・廻向」の対象としてお祀りすることができるようになるからであります。
もちろん、七支分をしない、仏さまのお加持のお力を頂かないとなりましたら、その必要性はありません。
川口英俊 合掌
心を込めてお作り下さいね
拝読させて頂きました。
読ませて頂いて私はあなたが仏様を求めていらっしゃると感じました。あなたを守りあなたを支えてくれる存在として仏様を求めていらっしゃるのかと思います。
ですからあなたが全く信仰心がないとは思わないですし、あなたが仏様を作ってはいけないとはならないかと思います。
逆にあなたがそのように求める気持ちがあるならばぜひあなたなりの仏様のお姿をお作りなさってみて頂きたいと思います。作って試行錯誤していく中であなたの心の中で求める理想的な仏様のお姿が現れてくるでしょうし、そこにはあなたの思いも込められていくことでしょう。
時代時代に応じて或いは地域によっても仏様のお姿は様々にあります。それら一つ一つの仏様の像が人々が求めて信仰を持っていく姿なのかと思います。
ぜひとも仏様の像お作りなさってみて下さいね。また様々参考になる仏様の像があるかと思います。画像でも様々な仏様のお姿がネット上でも見れるでしょうから様々な仏様を参考になさってみて、あなたの理想的な仏様のお姿を具体的なさってみて下さい。
一つだけ、仏作って魂入れず、という言葉があります。
あなたの思いや願いも込められて仏様をお作りなさるでしょうから、可能ならば帰国なさった時にでもお坊さんに仏様の魂入れつまり開眼をお願いなさって頂ければとても善いかと思います。
そうすることであなた自身の心にも仏様のお姿が一層尊くなってくるでしょうし、あなたの心のよりどころとなり信仰心も芽生えてくるかと思います。
ぜひとも仏様をお作りなさって頂き、ご仏縁を結んで下さいね。