私の課題は立派に生きていくことですか?
私は現在45歳の知的障がい者ですが週2回心療内科のデイケア通所中です。今月で3ヶ月目ですが通所日がまだ追加されません。私は何がなんでも40代で就職したいと頑張ってます。私がもし50代になってもデイケア通所は絶対に嫌です。いつかは就職出来るように現在の長いトンネルを1日でも早く抜け出したい心境です。私は感情コントロールを保って毎週デイケア通所してますが他の利用者とトラブルはございません。私はだんだん涼しくなる9月~10月頃にチラシ配布のバイトを実行するつもりです。現在は暑くて体力も奪われそうで日中何時間も炎天下でバイトするのは無理です。働いてない私はどうしても自分の力でバイトして多くて10000円ぐらいの収入が欲しいわけですし働かなければ私はこのまま負け犬になりそうです。自分からふと思ったのですが現在与えられた課題は生きていくことだと自分自身の心に呼びかけています。私は例えこの世から去って死んでも何も解決しないし亡き母に怒りそうです。今年10月にお寺の住職さんと2人で母の七回忌をする予定ですし近々お盆ですから何ヶ月も両親の墓参りには行ってないので絶対行こうと思うのです。私は現在先が見えずに心まで苦しいとは思うのですが私はこのまま頑張って生きていくことで絶対に報われますか?私の目標は40代で就職先が見つかっていつかデイケアから卒業したいです。今後5年~10年デイケアに長く居座るつもりさえございませんから早く働きたいです。私は過去に数々の挫折(自己退職等)を味わい続けましたがこれ以上負け犬になるのはうんざりです。私は大学院卒で県庁勤務のいとこと比べて私はザコだとかいとこはサラブレッドとかダイヤモンドみたいに輝けないとか悲観的になりネガティブ思考になります。何も取り柄がない中卒の私に頭がかしこいいとこには一切勝てるわけがありません。やっぱり中卒の私にはきっと報われないでしょう。私は就職にも大きなあせりが出ます。私はもし報われずにヤケになって海で自殺してこの世から去ればきっと母に大目玉で怒られるのは事実です。私は支援者から生きていくことで絶対に良いことあると言われたのですが本当でしょうか?私は亡くなった両親の年齢を越えて生きていくことが親孝行になりますか?それに現在与えられた課題は私は今後立派に生きていくことでしょうか?現在も気持ちが揺れる私ですがどうか良いお答えを願います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こうして悩みながら、でも生きていること。それも親孝行ですよ。
心療内科では、どんな話をしますか。
体調のことですかね。
あなたの状態を一番把握しているのは、医師でしょうから。仕事に関しても、どんな仕事が向いているのか、どのくらいのペースなら働けそうか、具体的なアドバイスがもらえればいいですよね。そしたら、仕事もそれに合わせて、探していけるでしょうしね。
仕事は、募集あるかどうかというタイミングもありますからね。あなたに取り柄がないとか、報われないということではないのですよ。
早くトンネルを抜け出したいですよね。チラシ配布のアルバイトも、いいですね〜。そのためにも、体力を蓄えないとね◎
応援しています(*^^)v
「こうしなきゃ」という心も一度捨て 人間本来の静寂さに親しむ
仏教の要点は「人がいつどこで何をしていたとしても、その心が完全に独立して自由であり、また誰とも比較もなく、堂々と本来の自分でいられる究極の安心を全うしていること」です。それが仏の教えです。何か厳しい修行をしてそうなるのではないのです。仏というと多くの人が特殊なものを思い描かれますが、そういうものではない。同じ人間が。誰もが。実現可能な。人間本来の最も安らかな作為のないさまを仏という。決して祀り上げてはいけない。外に求めてもいけない。自身の中に見出されるべきものであり、様子。人は、その本来の素晴らしい「仏の」働きを有しているのですが、そこに心の周波数がなかなか合わせられない。思考や分別、分析のチエのアクセルを踏み続けているからです。だから、賢い僧侶はそれをあえて捨てられる。いくら哲学めいたことをやり続けても安らぎは得られないと見限って自己のさわがしく、せわしない能動意識を捨て去ることが最重要であると見抜けているからです。そして、きちんと実証、確証、間違いない手ごたえを得ているからこそそこを大事にする
道を行くのにとてもいいこの上なく素晴らしい靴があるのにそれを履かずに履きなれた足も体も痛めるような履物を履いているようなものです。
私は仮に障害をお抱えの方であっても、心療内科にかかっている方であっても自分を「名付ける」ことのないようにお伝えすることがあります。
心というものは固定的ではないからです。
ひと時として同じ状態ではないこの心に名前など付けることはできません。
だからこそ、川の流れのようなひと時としてとどまりのない、この心の流れに逆らうようなこともせず、何が流れてこようとも拾い上げない態度こそが仏道修行の最重要課題なのです。
人間は自転車のペダルをこぐような自発的な能動意識があります。
それを完全に手放してしまう。
それは病床であっても、足を組まずとも、高齢者であってもできることなのです。
立派に生きていかなければいけないとか、誰かと比べることも一度完全に捨ててみることです。
自分ルール、自分はこうしなければならないという心にも追われることを止めてみることです。そういう意識をもとことんなげうって静かに自分の心の川の流れの上流から流れてくる一切の想念を放っておく。それをとことんやって初めてより良い価値、人間の本当の在り方「仏」を見出すことができるでしょう。
質問者からのお礼
今回はどうもありがとうございます。私は体調面は大丈夫ですし以前のように病院の救急外来にかけこむことももうございません。ただ心の病気(不安症)で心療内科に受診中でございます。私はデイケア通所後以降他人に怒りを覚えて怒ったり攻撃することもありません。だから様々な不安という揺れる気持ちの波にいる私ですがどうにか40代のうちに就職してデイケア卒業したいです。現在は大きな病も発症しておりませんし健康体で毎日生活してる様子でございます。母も私に頑張れとか応援していることでしょうから色々揺れる気持ちの中ですがいつかトンネル抜け出して絶対に明るい未来があることに目を向けて今後も頑張ります。