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何がしたいか分からず、消えてしまいたい

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毎日仕事に追われて、家に帰っても食事をして寝るだけで、休日も疲れて寝るだけの生活をしています。

今は自分のやりたいことがわからなくなり、これまで楽しめていた事も楽しくなくなり、友人や家族と会った際も自分がそこにいていいのか分からず不安になります。

このまま、ただ働くだけ働いて楽しみもなく人生を送っていくビジョンしか見えずこのままいなくなりたいという感情が強くなっています。

自身の楽しみや希望を持つにはどうしたら良いでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

同じスキルで別の職場で力を発揮

労働搾取されていると思うことです。
別の職場でもあなたのスキルは高く評価されます。
隠れブラック企業は気づいた時点でそっと抜け出すことです。
あなたの力を発揮することで、会社もうれしい、あなたもうれしくなれる職場は億千万の企業の海の中でちゃんと探さなきゃ見つかりません。
「一度始めたからには最後まで」という、本人の安全や健康も配慮しないような、いい加減な教訓フレーズに惑わされないで身の安全、今後の健康の為にもちゃんとあなたを守ってくれる企業を探しましょう。世の中に求人募集・求人広告が無くなったためしはありません。

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有り難し
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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