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社会的価値0な自分

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有り難し有り難し 15

こんばんはななみです今週もよろしくお願いします。今回は少しだけ見やすいように気をつけようと思ったのですがスマホで書いてるせいなのか空行が入りません結局乱文になってしまいましたすみません。働こうと思い1ヶ月経ちました。この1ヶ月バイト面接に行きパート面接に行きちょうど来週の9日には正社員希望の面接に行きます。 面接のために履歴書を作るのが嫌になってきました、履歴書の中身が驚くほど真っ白なんです。 最終学歴は中卒ですし資格や経験の欄はないので当然空白、そもそも自分はまともに文字すら書けません(特に漢字)ので面接に行った場所で筆記試験?のような事を出されると、あ、終わった、となります。 自分でも意外でしたが人と目を見てしっかり話せてます、男にしては長い髪ですがしっかり結んで外見にも気を使ってます。 採用されるためにいろいろ頑張ってますが履歴書だけはどうにもなりません、外見や性格は明るく見えるように偽っても学歴や資格経験を偽るのは当然いけない事です。 そしてここ数日は眠りが浅く早朝に起き働いてない自分を責めてるし、ご飯を食べようとしたり、飲み物を飲もうとしたりすると働いてない罪悪感からか吐き気もしてきます。 もうとにかくこの歳で働いてない自分に対する自己嫌悪とこんな俺が働けるのか…奇跡的に雇われても働き続けれるのか、と思う後ろ向きな自分がいて感情がぐっちゃぐちゃです、なんかもう全て手遅れな気さえしてきます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

元々本人に配合されている自身独自能力の開花・開発(かいほつ)

履歴書の中身は誰でも元々真っ白です。
そして、それらは過去の事。
あなたは今を生きています。
履歴書には書けない項目でも過去の経験・データ・スキルは本体であるあなたに備わっている。周りと比べてコンプレックスを感じる必要はありません。
ニンジンはニンジン。大根は大根。きゅうりはきゅうり。ねぎはねぎでねじはねじでねこはねこ。それぞれ世界でたった一つのね〇であり、スペシャルな個性です。
今の時代、漢字が書けなくても変換機能が優れているので大丈夫です。
3大テノールのパバロッティさんは楽譜も読めませんでしたがオペラの世界で大成されています。
高額納税者でも中卒ですぐに社会に身を投じた人も多いです。
大事なのはキャリアや肩書よりも事実の中での実績。本人の手ごたえ。自分史上最高の手ごたえ。
あなたが求めるべきはあなたがあなた自身の「これおもしれぇ…!(# ゚Д゚)」と心底、楽しさや自分とのフィット感を感じることではないでしょうか。
私はギターをやりますが、自分にとってフィットするギター、アンプ、サウンドというものがあります。それは誰かから教わるものじゃなくて、自分でちゃんとわかるんです。どんな職業でも料理でも音楽でも「そう」なんです。
仏教業界でもお経の意味が分からなくても自分自身を見つめる力があれば仏道、仏法はちゃんとわかります。
ここでいう仏道、仏教とはあなた自身の事です。
あなたが迷っておられるのはあなたはあなたなのにあなた自身があなたの本アドレスを見失っていることではないでしょうか。
どうして肩書やキャリアという後付けの方に価値や重きを置く必要がありましょうか。
仕事と言ってもその日、その場所で、あなたの手と足と体、言葉を発して「なんかやるだけ」と単純に考えることです。やれることをアウトプットするだけです。
あなたは何でもやれます。
無限の大砲、小銃をもっているのに、それを発しない。
無限の技、術、スキルを持っているのに、それを出せない。
それが躊躇、ためらい、迷いというものです。
24時間の内、思うことに時間をかけることよりもアクション・行動・やる・DO・修する・あらわす・行じる・うごかすことに時間をかけることです。
人間は「おこなう」ことで自分の内部に仕込まれている才能の花が開花・開発されるのです。世間の人も仕事をしてるのではなく開花の方法を探しているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。どうしても今は頭がぼーっとして夜には治ると思うのでまた夜にお礼を書かさせてもらいます

改めてありがとうございます。今は大砲と小銃に弾を込めて面接や仕事が決まったら発っせれるようにします。あとタグを間違えてましたすみません。

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