お参りしたり修行することについて
お寺や神社によく参拝したり、修行していたりする方がいるのですが、倫理観に欠けた発言をしていました。
(公にするのは憚れるので、プロフに書きました)
こういった方でもお寺や神社に参拝して、ご利益はあるのでしょうか?
私も人には言えないことがいくつかあり、様々なことを後悔して善行をできるだけ重ねようと生きています。
しかし、こういった方はとても仏様の教えなどを理解しているように思えないのです。
ふと思った疑問ですが、回答をくださると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
請求書的祈り、領収書的祈り
A, 「いつもお世話になっています。」と言って、神仏に手を合わせる人。
B, 「私はこれだけお参りしたんですよ。これだけお賽銭いれたんですよ。」と言って、手を合わせる人。
ご質問に出てくる人は、Bの参拝をしていると思います。仏様は我々を正しく導くために教えを説かれました。特定の人の利己的欲求に応えるために教えを説いている訳ありません。
明恵上人の有名な逸話があります。
「ある人が、明恵上人に祈祷して欲しいと所望したところ、上人はこう答えられた。「私は朝夕にすべての生きとし生けるものの為に祈念をしていますから、間違いなくあなたもその数の中に入っております。それゆえ、あなたの為だけに祈る必要などありません。(あなたの願いが)叶うべき事であれば、叶うでしょう。また叶うべきでない事であれば、仏のお力も及ばぬ(無理な願い)事なのでしょう。その上、平等の心に背いて私があなたばかりの為に祈ることなど、一方を依怙贔屓するようなもの。そのように親疎分け隔てして一方を贔屓するような者の言うことなど、仏も神々もまさかお聞き入れられはしないでしょう。」
大本山法楽寺HPより引用 http://www.horakuji.com/lecture/myoue/maxim/2.htm
宗教評論家のひろさちやさんはこういう方を上手い表現で分類してます。それがタイトルに書いた「請求書的祈り」「領収書的祈り」です。
『サライ』インタビューからの引用
https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1201/06/news009.html
神仏に請求書を突き付けている限り、神仏からの本当の御利益は望めないように思います。
但し、そういう心がけであっても、参拝すること自体決して無駄ではありません。結縁という言葉がありますが、参拝を重ねることで仏様とのご縁を結んでいるんです。正しい「気付き」に至る可能性だってあるかもしれません。せっかくお参りを重ねているんですから、いつかは「領収書的祈り」になって欲しいですね。
ご利益が全く無いわけではない
筋トレの目的と方法をしっかり理解して腹筋のトレーニングをすれば、トレーニングの効果は確実に出ます。
一方、意味を全く知らない幼児が遊びで筋トレしている人のモノマネをした場合にも、一応筋肉を動かしていれば多少の効果はあるでしょう。
なので、ご質問の場合も、ご利益(修行の効果)が全く無いとは言えません。
ただ、お釈迦様は原因と結果の法則を発見されました。
悩み苦しみの原因(煩悩)を消したり制御したりすることで、悩み苦しみを消せたり制御できたりするという「ご利益」を得られるのです。
殺さない・盗まない・嘘つかない・不倫しない・お酒やドラッグに酔わない、
という日常生活の五つの戒めについて、完璧には守れなくてもせめて意識した方が修行効果は出やすいでしょうね。
質問者からのお礼
回答いただき本当にありがとうございます!
説明が丁寧でとてもわかりやすかったです。
本質がよく分からなくても、文字をなぞるように行えば多少効果があるものなのですね。
多分もうそうそう会うことはない方ですが、ご本人は非常に能力のある方なので、自分の考えを省みるときが来たら素敵なのになと思っています。
「請求書的祈り、領収書的祈り」はとても伝わりやすいですね。
キリスト教でも、あくまで感謝を伝えることが本質で、信仰と引き換えの契約は邪道だと本で読んだことがあります。
リンク先のページも読ませていただきましたが、非常に自分のためになりました。
今度どこかにお参りに行く時は、感謝のみならず自分の覚悟も宣誓して、日頃やるべきことを頑張りたいと思いました!