なぜ私は生まれたのでしょうか
20代の女です。
なぜ私は生まれてきたのか、生きている意味があるのか、存在する価値があるのか、と悩んでいます。
私が生まれた家庭環境は決して良いと言えず、母親はギャンブルに狂い、家のお金を使い借金を作り、最終的には人のお金に手を付け私が18歳の時に刑務所に入りました。
私は父親に引き取られ暮らしましたが、20歳の頃に私に借金を作らせて蒸発。
運が良いことに親戚が助けてくれて借金の肩代わりをしてくれて一人暮らしをする手助けまでしてもらいましたが、最終的に残ったのは学歴も資格もお金もない私だけ。
最近では病気が見つかり、病気が原因で仕事を解雇されました。
何もない空っぽの私が人に助けてもらうまで生き続ける意味があるのでしょうか。
家族がいた頃は縛られながら、親の言うことを聞きながら生きてきたので、1人で生きていく術を覚えられずに生きてしまいました。
今は親戚が後見人のような形でたまに様子を見てくれたりしますが、ありがたくも正直うざったく感じてしまう自分がいるのです。
学がなくとも人はやっていける、自分の周りにいる人の一例を挙げて私に話してくれるのですが、聞かされるたびに私の無力さを押し付けられるようでとても心苦しいのです。
そのような人たちはちゃんとした両親に育てられ、私とはスタートが違うのですから。
それでも私は両親とは違う、と親戚の前では虚勢をはり、親戚の前では良い子を演じてしまいます。
仕事を解雇されたのも、病気が見つかったのもまだ親戚に言えていません。
仕事に就く際も何度も揉めて、やっと納得してもらって就いた職なのにあっさり解雇されたのを非難されそうで辛いんです。
仕事も探して受けていますが受けては落ち、仕事もなかなか無く、このまま再就職できなかったらどうしようと不安で仕方ありません。
こんな状況でも遊び呆けようとする自分にも嫌気がさします。
でも毎日が寂しくて、友達に会いたくてしょうがないんです。
生まれてきた頃からずっと不幸で、生き方もどうしようもない生き方で、こんな私は何故生まれたのか、何故生きているのかと思うのです。
まとまりがない文章で申し訳御座いません。
お答えしにくいかもしれませんがお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きる意味・価値・理由・・
蜜柑様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
これまで色々とおつらい思いの中でお過ごしになられてしまわれてこられたのですね・・どうかお幸せになって頂きたいと存じます。
生きる意味・価値・理由・・
正直、「これで正解だ」と言い切れるようなものはありません・・
さて、仏教では「空」を説くのですが、それは、あらゆる全てのモノ・コトというものには、実体が無い、独立自存としては成り立っていないと考えるものとなります。その例外は無く、生きる意味・価値・理由などの思考による概念などもそのようになります。
但し、何もないという「無」ではありません。知覚・認識されるようなモノ・コト、あるいは知覚・認識されないけれども有り得ているモノ・コトというものは、確かに存在はしています。拙生も貴女様ももちろん、現に、このようにして存在しています。
しかし、存在はしているのだけれども、それらのありようは、上記で述べさせて頂いたように、「空」であり、ただ、「縁起」として存在していると説明することになります。
「縁起」とは、モノ・コトは、因縁(果)という関係性による成立、全体と部分との関係性による成立、分別作用の関係性による成立と、何かに必ず依存してモノ・コトは成り立っているということを申します。
それは、生きる意味・価値・理由の各それぞれにおいても、実体としては無い「空」なるものではありますが、「縁起」としてはそれぞれ有り得ているというものとなります。
そこで、貴女様が、生きる意味・価値・理由を、否定的な感情・考え方で捉えてしまっているならば、これまでの人生・生い立ち・境遇・環境・人間関係等の因縁(原因と条件)などによって、そのように捉えてしまっているのであり、もし、それらの因縁をより良いものとすることができていければ、今度は、肯定的な(あるいはニュートラルな)感情・考え方で捉えていくことも、十分に可能になっていくということになる次第でございます。
きっと、良き因縁を調えていくこと次第で、良き生きる意味・価値・理由へと変えることができますでしょう。
その良き因縁を調えていくためのヒントが仏教にはたくさんございますので、是非、仏教を少しずつ学ばれながらにでも好転を目指して取り組んで頂けましたらと存じます。
善処、お幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
答えになるか判りませんが
蜜柑様
優譽と申します。
表題の通り、答えになるか判りませんが一言申させて頂きます。
病気になったのは蜜柑さんの性ではありません。みんなが成りうる事です。
病気によって仕事を解雇されるのも蜜柑さんの性ではありません。みんなが成りうる事です。
遊びたいと思う気持ちはダメじゃないです。みんなが持つものです。
「こうでなければいけない!」というレッテルを自分で作り、自分を傷つけるのは出来るだけ避けて下さい。みんなずっと働き、ずっと笑顔でいる訳じゃない。
苦しい時は休みましょう。悲しい時は大人だって泣きます。
親戚の方も事情を丁寧に説明すれば納得して下さると思います。
後は、いきなり理想に辿り着く事ばかりを考えず、小さな目標と中間目標を考えてみてはどうでしょうか。
目標に向かう中で、生きている意味とか、生まれてきた理由がゆっくり見えてくると思います。
ちなみに私は、他人や世間一般と自分を比較せず、一年前の自分自身と比較しています。
無駄な人生だったか、実りのある人生だったかが判断しやすいかと思います。
ご親戚を実の親と思って
大変な人生を歩んできたのですね。
想像できないくらい辛かったことでしょう。
そんな中でも、ご親戚が支えてくれてよかった。
どうか、ご親戚を実の親と思って接してください。
実の親と思って、あなたの現状を、あなたの苦しみを、素直に伝えてください。
きっと力になってくれるでしょう。
どんな仕事でもいいのです。
先ずは仕事して、ご親戚に恩返ししましょう。
友達と会いたいのは分かりますが、友達とは電話やメールでコミュニケーションをとって、今は仕事を探す時間を作りましょう。
あなたはあなたの幸せの為に生きればいいのです。
実の親とは距離を置いて、ご親戚を実の親と思って、あなたの幸せを見つけてください。
何故生まれてきたのか、を見つけるために
今までのご生活さぞ大変なおもいをなさって、そして生きていらっしゃっるのですね。本当にお辛いおもいをなさっておられることお察しいたします。
思うに私達は誰しも生まれてきたときは人間として同じではありません。社会の中でも人としても全て平等な環境や身体を与えられているわけではありません。大なり小なりそれぞれ与えられた差があります。それはあくまで今生きている中でのことです。それぞれに与えられた中で成長し合間合間に目的を見つけたりして生きています。
自分の生きる目的や意味はそれ自体を見つけるために生きているのだと私は考えます。私は僧侶ですが、僧侶となった目的も私の気がつかない中で自分の生きる目的を見つける為に導かれていったのではないかな?と最近思います。
多くの辛いこともありますがその過程で生きる意味を見つけていければいいのではないでしょうか。
お互いにその生きる意味を見つけていきたいですね!
あせらずにムリなく頑張っていきましょう。陰ながら応援させていただきます。
罪障消滅のために生まれてくる
法華経常不軽菩薩品にはっきりと説かれています。
過去世の罪を現世で償った結果、仏(釈迦無尼仏)となったと。
今を見て過去を知れ。
今が辛ければ過去世に同じ辛さを人に与えたと理解しなさい。それが因果です。結果には必ず原因がある。
人は過去世の罪を償うために生まれてくる。辛いのは当たり前。
しかし、正しく償えば、償う方法が正しければ必ず救われる。
人は過去世の罪を償うために生まれてくる。それ以外のなにものでもない。
最後に、「不都合な答えほど真実である」
心が疲弊している今は特に、目の前の安っぽい優しさに癒されたいと考えてしまいがちだが、それはとても危険です。こういう時ほどしっかりと自分を持ちなさい。自分を見失ってはいけませんよ。
質問者からのお礼
皆様ありがとうございました。
皆様の言葉を受け止め日々過ごしていこうと思います。