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婚約破棄後、どう考えていったら良いか

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私から婚約破棄と致しました。
まだ好きな気持ち、罪悪感、今後の彼の心配(私からなのにおこがましいですね)、自分の人生、色んなものが襲ってきて辛いです。
もちろん本当に辛いのは彼の方だというのは理解しています。

決断した理由は彼の上からな発言にモラハラ気質な部分とごめんと言えない性格です。
婚約前からなんとなく?とうっすら思ってましたが、全て合う人などいないし大丈夫かも?と、お互いの好きな気持ちを優先して婚約しました。
私の覚悟が足りないまま進み、モラハラが加速してきて怖くなり逃げ出し、相手を傷つけました。
別れ際に彼は将来誰とも結婚しない、相手は私だけだからと言っていました。やりきれない気持ちでいっぱいだと。
前の彼女から酷い仕打ちをされ辛い思いをしていることを聞いていたのにまた辛い思いをさせてしまいました。

今までに彼から私の駄目なところを沢山教えてもらっていたので、こんな駄目な私を受け入れてくれるのは器の大きい彼しかいない、素晴らしい人だと思ったりもします。
私は要らないと言っていた指輪を用意してくれ親にもきちんと挨拶をしてくれ、不器用ですが家族思いのしっかりした生真面目な人でした。
そんな彼の人生を狂わしてしまいどう償ったら良いかわかりません。
これから結婚して怒鳴られたり嫌味を言われる生活でどんどんエスカレートする様子を想像をしたら戻ることはできないので、せめて婚約指輪代金や慰謝料をと思いましたが、いらない意志表示をされました。渡したら全て解決するわけでもないでしょうが。
好きな気持ちより自分可愛さが勝っていたからこのような結果を引き起こしたのだと思います。

これから私はどういった気持ちで生活していけば良いでしょうか?
そしてもし今後落ち着いてきて、良い相手が見つかってもまた傷つけてしまうかと思うと、将来の伴侶を探すのも諦めるしかないでしょうか?
自分だけ将来幸せを探そうなんてずるい考えでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

モラハラ、パワハラは本人の問題です。

あなたが悪いと思う必要はありません。
分かりやすく言えば、のび太君がジャイアンに殴られたのに、のび太君がジャイアンに気を使う必要はありません。ジャイアンの人間性の問題です。関わってはいけない人と関わるべきではない人が関わったら被害者と加害者の関係しか生まれませんので、関わってはいけません。どうして、男女、恋愛の関係で苦しまなければいけないのでしょうか。単純に相性が悪いだけです。
加害者は加害者。
DV野郎はDV野郎。犯罪です。
モラハラ野郎はモラハラ野郎。関わっちゃいけません。私があなたの親の立場であってもさっさと別れろというでしょう。
普通に恋愛している人はそんな負担はありません。
結婚は人間が幸せな家庭を築き上げる最高の場所です。
DVやモラハラなんぞ絶対にあってはなりません。
謝らない人間は自己中心的な正義、自己愛が過剰で愛はありませんので家庭的ではありません。本人が自分の性格に問題を感じて、施設や医療で改善されるべき分野であって、恋愛や男女の関係、あなたが面倒を見る必要はないのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中お返事くださりありがとうございます。
何度も何度もも読み返しをさせていただきました。
私がちゃんとできないから不機嫌になったり怒ったりするんだ、何も起きてないのに不機嫌にはならないよ、そうならないよう先に先に考えるんだ、と彼は言っていました。
なので気を使えない私に問題があって、ちゃんとできない私が悪いんだとも思っていました。
しかし、わかりやすい例を挙げていただき、読み返すことで少し心が和らぎました。
私たちは相性が悪かったのですね。
幸せな家庭を築きたい、将来の生活が楽しみに思えるそんな人と出会えたら良いです。
好きになってしまったので、すぐにはスッキリいきませんが今後も彼を思い出したらこちらを読ませていただきます。
拙い文章で分かりづらいかったかと思いますが、丁寧にお返事くださり本当にありがとうございました。

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