本当の自分がわからない
ひとに嫌われたくないという思いが自分の行動原理になってしまい、本当の自分がわからなくなりました。どんなひとといるときも、自然とそのひとの求める自分像を演じようとしてしまいます。ずっとそんなことを続けていたら、自分が本当は何をしたいのかわからなくなりました。
今までは、そうしないとこんな自分は受け入れてもらえないのだから、多少苦しくても仕方がないと思っていました。しかし、最近ふと、そんな生き方しかできない自分に生きている意味があるのかと思うようになりました。
現在の仕事も、親の期待にそうようなものを選びました。仕事が好きなひとばかりではないと思いますが、好きでもないことを延々とこなすだけの毎日に意味を見出せず、つらくて仕方ありません。
ひとの顔色ばかりうかがったり、ひとによって性格がかわってしまったり、そんな自分がとても嫌いです…しかし、本当の自分なんかがひとに好かれるはずがない、という気持ちもあります。ひとに嫌われることばかり考えず、ちゃんと自分らしく生きるためにはどうすればいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
選んでいるのはご自身ですよ。
本当に嫌なら選んでいません。大丈夫ですよ。無難に生きることにどんな問題があるのでしょうか?平穏無事で明るく楽しく生きることこそ、この世に生をいただいたものの務めだと思いますが、如何でしょうか?
人の意見に左右されるといいますが、悪く言うと主体性がないとか、優柔不断になりますが、よく言えば、人の話をよく聞き、考え方が柔軟であると言えますよ。
私は親や回りの人の意見を聞かず自我を通して酷い遠回りをしました。青春時代を苦しく厳しいある意味の人生勉強、修行に明け暮れたんです(笑)
そういう意味では素直に人の意見を聞ける人は素晴らしい。尊敬しますよ。
あなたも、ご自身の性格をマイナス面で捉えるのではなく、人生を現実に確実に生きている成功者として、もっともっと明るく楽しく前向きに生きられたらいいんじゃないでしょうか?
楽しむか、後ろ向きに振り向き振り向き生きるのかはあなた自身、そしてあなたのそれこそ選択なんですよ。
あたなの輝ける人生に幸い多かれ!
「本当の自分」はただの概念(言葉)
「本当の自分」という架空の概念にふりまわされないでください。
今の自分以外に自分はないのです。
誰でも、外見と内心に違いがあります。
心の妄想のまま、感情のままに行動するのは畜生みたいな生き方でしょう。
悪い心を現実の行動に出さないよう戒めるのが、理性であり修業であり尊い生き方なのです。
自分の行動には、あなた自身、責任を持つこと。
亀山純史と申します。
「自分」ということに関して言えば、一つには「自分はどこにもない。」と言えます。それは諸法無我だからです。実体としての私は存在しないのです。しかし一方、「自灯明」と言い、「自分を依り所にせよ。」とお釈迦様は仰いました。
今、ご相談者、みーさんはこの自分を依り所にすることが出来ていないことに悩んでいるのだと思います。しかし、人に嫌われないように生きる生き方を全面的に否定する必要はありありません。大切なことは、たとえそれが人に嫌われないように生きるためにとった行動であっても、その行動には自分自身、責任を持つことです。決して、自分がとった行動の責任を他人に押し付けないこと、つまり、「あなたに嫌われないように行動したから、こうなったんだ。」と責任転嫁しないことです。そうすることが、「自分を依り所にする生き方」を作り上げていくことに繋がっていくでしょう。
以上が私からの回答です。ご参考になさってください。
質問者からのお礼
願誉 様
ご回答ありがとうございます。悪い心を出さないように戒めるのが尊い生き方であるとのお言葉が身にしみました。そんな生き方をしていけたら、そしていまの自分をだんだん受け入れていけたらいいなと思います。
三浦 様
ご回答ありがとうございます。わかりやすく、あたたかいお言葉に涙が出ました。ついつい悪い方へ悪い方へと考えてしまうのがわたしの悪いところなのだと思います。自分を受け入れたうえで、自分の生き方や考え方を否定するのではなく、肯定的に前向きにとらえられるようにしていきたいです。
亀山 様
ご回答ありがとうございます。わたしは不満なことがあると、自分でやりたいと思っていたわけではないのにとつい責任転嫁したくなってしまうことがあります。ですので、自分の行動に責任を持つというお言葉に、はっとさせられました。その行動を最終的に選んだのは自分であるということは、常に心に留めておかなければならないなと感じました。