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自分の顔が嫌いで醜くて仕方ないです。

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私は中2女子です。小6の時クラスの男子にブスと言われたことで自分がブスだと気づきそこから自分の顔がとても嫌いで気持ち悪いです。
私は鼻が一番コンプレックスなのですが、クラスの子から「○○(自分の名前)って○○(鼻が特徴的な芸能人の方)に似てるよね‪w」と言われますます自分の顔のことで悩むようになりました。
毎日家を出る3時間前に起きて顔をできるだけブスに見えないように化粧をしています。
それでも家を出る前に鏡を見て絶望してしまって学校に行けないこともよくあります。
毎日毎日自分の顔を見て泣いていて、その私の姿を見て母はとても悲しそうな顔をしていて母にもこんな娘で申し訳ないと思い自分自身も嫌いになります。
どうすればもう少し自分の顔も自分自身も好きになれるでしょうか?
アドバイスいただけると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分で自分を悪く言う低評価ボンノーが苦しいだけです。

顔は持って生まれた誰とも比較のしようのないあなただけの天上天下唯一無二の尊いお顔です。
そこに自分で自分を悪く評価するDISり意識=低評価ボンノーが生じているから苦しいだけ。職人さんが顔なんぞ気にしてますか?学生さんが授業中やテスト中に鏡なんて見ていますか?美男美女の夫婦はいつも相手の顔ばっかり見ていて相手の顔や容姿しか愛せないのでしょうか?
人生、開くページは何万ページ、何億ページもあるのです。
どこに意識を向けるべきでしょうか?
顔で一等賞、誰もが羨む美人顔に整形すれば落ち着くでしょうか?
いいえ。
それは、結局コンプレックスの増加にしかつながりません。
今度はここが気に入らない、ここをもっと良くしたいという気持ちが生ずるものです。
今この文字をご覧になっておられた時には、自分の髪の毛を忘れていたはずです。自分の目や耳を忘れていたはずです。
いや、気になっていると思うかもしれませんが、それは今新たにそのことを一念として思い起こし始めただけなのです。
気にすることが悪いというわけではありません。
あなたは周りの人があなたの顔のことをとやかく言っていないにもかかわらず、過剰に気にし過ぎてしまう癖がついてしまっているのでしょう。
気にすることが悪いのではなく、そこに負の思い、ネガティブな思いをまぜこぜにするから自分の顔がこのままでは恥ずかしいとか、劣るような心理が生じているだけなのです。
私はブサイクですが、ブサイクを堂々と生きています。
ブサイクでありながらブサイクであることを忘れているからです。
鏡を見てもブサイクであることを忘れています。
そうすることで、ブサイクであっても病気を抱えていても借金を抱えていても人間はそのことで苦しまなくなるのです。
では、その方法はどうすればよいのか。
それは、先ほども申し上げたところにヒントがあります。
今あなたは足の裏を忘れていました。
自分の目では見ることのできない視覚の所の髪型も忘れていました。
鼻にコンプレックスがあるといっても鼻の穴の奥のことなど忘れていました。
今から意識してみてください。
そこに「負の思い」が付着し始める瞬間はいつ、どこで、誰が、やっていることなのでしょう。
実は自分をおブスちゃんだと悪く言っている真犯人はあなた自身なのです。
いつ、どこで、誰が?あなたを悪くののしる思いを起こしているのでしょうか?

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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