もうダメです。
何回もお世話になってすみません。
次から次へと、困難な事・苦しいこと・切ないことが起こります。
何ひとつ解決するでもなく、次から次に問題ばかりが起こります。
自分は負け組です。
生きているのが辛いです。
死にたい気持ちが、どんどん大きくなります。
どうせ生きていたって幸せにはなれない。
苦しいばかりの人生、もう終わらせたいです。
子どもたちにも、こんな負け組の親も元に生まれてこさせて申し訳ないです。
違う家庭のすぐれた親の元に生まれれば、ずっとずっと幸せになれたのに・・。
私が家族の災いの元なのです。
死にたいです。
死にたいです。
もう人生を終わらせたいです。
まわりの人は皆、幸せなのに自分には不幸ばかりが集まってきます。
だんなの事も、子供のことも、もうどうでも良いです。
死んで楽になりたい、何も考えなくなりたい。
きっと、だんなも子供も私が居なくなったほうが心穏やかに暮らせます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死にたしと口癖となり軽く言うホントはすべきことやる気なし
軽々しく死にたいなどというひとは、本当の苦というものを知らないで、目先の欲望が満たされなくて不平不満をいうのだろうと、あなたのことだけでなく聞かされるたびに思います。
日本人の貧しさはずっと昔から続いていて、食うや食わずの暮らしを我慢しどうしで生きてきたんです。国民みんなが恵まれて豊かに暮らした時代なんて一度もありません。
金持ちというのがいるということは、私も子供のときから知っていましたが、自分のうちは貧しいのだと自覚ははっきりあって、そのことを僻んだりはしないで、自分の環境を自覚して生活してきました。自分がおとなになったら頑張って親を楽にしてあげたい、という気持ちがあって、貧しい暮らしのなかで子供を慈しんでくれてる親の姿を見て育ってきたんです。
子供を見捨てて死んでしまいたいなどという親の姿を見たことなどありません。
どんなに貧しくても、骨身を削って内職などしながら、子供の成長を楽しみながら、親は笑顔を絶やさないで貧乏暮らしを淡々とやってきたんです。
苦か楽かは、解釈、考え方であって、悲観ばかり、愚痴ばかりいってる人は自分の人生をきちんと見つめて把握していないんです。
泣き言をいえばだれかがなにかを恵んでくれるのでしょうか?
豊かに暮らしている金持ちと自分を比較して嘆いたりするのは、自分に与えられている環境、運命を自覚できていないからです。
ひとはなぜそこにいきているのか?
ひとはなぜそこにすんでいるのか?
ひとは好きなところに行って好きなように暮らせるだろうか?
私はなぜここにいるのだろうか?
よくお考えになってください。
一回こっきりの人生は困難があってこそ生きがいがあります。
死にたい死にたいは撤回し、自分がどこから来たか?先祖供養でもして反省してください。
幸せは見つかりにくいところにある
何回もお世話になることで救われているのなら、質問する意義はあります。
でも、自分を追い詰めすぎていませんか?
勝ち組負け組と連呼していますが、よく考えてみてください。
仮に宝くじ1億円が当たったらその人は勝ち組ですか?
じゃあその当たったせいで家族親戚一同から妬まれ、誰のことも信用できなくなっても勝ち組のままですか?
仮に事故で足が亡くなったら負け組ですか?
その後家族に支えられ、家族の愛情と共に生きがいを見つけ、生きていることに感謝できるようになった人は負け組のままですか?
そもそも人生に勝ちも負けもありません。
そう見えてしまうのは、他と比較し過ぎているから。
じゃあテストや競争の勝ち負けはどうなのか?
そういった競争は、負ける人がいるおかげで勝つ人がいるんです。
負ける人がいなかったら誰も勝てない。
負けることだって誰かの役に立っているんです。
人生の勝ち負けには何の関係もありません。
まぁ、今そこまで感じて下さいとは言いません。
でも、自分に起こるイヤなことばかりに嘆き、愚痴り、あまつさえ自らの命を亡くして、家族や周囲を不幸にすることはダメですよ。
お子さんらにも幸せになる権利はあるんですから。
その権利は母であるあなたが与えた権利です!
でもその権利は、使いこなせる人とそうでない人がいます。
こんな話があります。
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神仏が「必ず幸せになることができる宝物」をどこに隠そうか話し合っていました。
簡単に見つかったらありがたみがないですから。
必死に探して見つかって、喜んでもらえるところに隠そう。
さぁ海の底にしようか、山の上にしようか……
そして一番見つかりにくいところが決まりました。
「人の心の底」です。
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おめさん、探すのを諦めないでください。
質問者からのお礼
ありがとうございました。