低レベルな自分に気づいた時
こんにちは。自分は今まで生きてきてさまざまな経験をするうちに自分が一生をかけてやっていきたいと思える分野を見つけることができました。この世の中自分のやりたいことが見つからないという人が多い中、これは大変ありがたいことだと思っています。
しかし、その分野で大成するため本気で取り組んでいるうちに、あることに気付きました。それは自分の無能さです。自分のやっていること、発想、アイデアは客観的に見てなんて低レベルなんだろう、なんでこんなに低次元のことをしていたのだろうと思いました。そう感じた瞬間自分は雷に打たれたような衝撃を受け駄作を送り出し続けてきた世間への申し訳なさでいっぱいになりました。
ただ、ひとつだけ良かったと思えるのは深く反省した後、またやっていこうと思えたところです。諦めるという発想だけはどうしても湧いてきませんでした。その根底には自分の能力を磨いて社会に役立てるようなものにしたいという思いがあったからです。
ここで質問したいのは仏教の世界には自分の愚かさを痛感して反省した者に救いの手が差し伸べられることはあるのか、また客観的に見て自分はレベルの低いと知った上でそれでも前向きにいこうと思う自分は人が目標に向かって歩んでいく過程において正しい心構えができているのだろうかということです。もちろん心を入れ替えただけで問題が解決するとは思っていません。自分の課題解決に向けて具体的な分析をしていこうと思った中で生まれた疑問です。自分が愚かだったと気づいて頑張っていこうと思えたのは良いのですがそれに囚われてしまえばいい考えが浮かばなくなり、悪循環に陥ります。同じところをぐるぐると回り続けることのないように、世間とのズレに気づけないまま無駄な時間を過ごさないようにアドバイスしていただけたらと思い相談しようと思いました。うまく自分の悩みをまとめられず申し訳ございません。今の自分には自分の考えを整理し、伝える技術もないように思えます。ほんの少しでも力を貸していただけると幸いです。どうかよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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今やるべきことは、単純にこれです
こんにちは。
「自分が一生をかけてやっていきたいと思える分野を見つけることができ」た。
これは良かったですね。
一方、「自分の無能さ」と書いていますね。
その「無能」の内容は、「自分のやっていること、発想、アイデアは客観的に見て」「低レベル」である。その「無能」さを「感じた瞬間自分は雷に打たれたような衝撃を受け」たと書いてあります。
あなたは、まだ20代で「やっていきたいと思える分野を見つけ」て間もないのでしょう。あなたの言葉を借りて言えば「無能」で当たり前です。「無能」かどうか、そんなことを判断する前に寝食忘れて没頭するぐらいに努力し続けることが大切だと思いませんか。
最初から斬新な「発想、アイデア」があるはずがありません。
ピカソの言葉に、優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む、という言葉があるそうです。まず、オリジナルを出していく前段階として徹底した「模倣」がある。優れた芸術家に対する尊敬と学びを深める。「発想、アイデア」はその「模倣」が熟した後です。その芸術の核心まで「盗む」が如く自分のものにする。そして、その上で自分色まで出していく、のです。
「仏教の世界には自分の愚かさを痛感して反省した者に救いの手が差し伸べられることはあるのか」と書いています。「仏教」は、そもそも有能か「無能」かを判別する教えではありません。「無能」の人に「救いの手が差し伸べ」て、有能な人には不要です、そんな教えではないのです。
簡単に言えば、有能「無能」に関わらず自らの煩悩にどう向き合えばいいか分からない、そういった人を目当てに仏様は「救いの手が差し伸べ」られるのです。
「自分が一生をかけてやっていきたいと思える分野」なのだから、一層の努力をしてみる。今やるべきことは、単純にこれです。
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。確かに自分の実力を判断するのには早すぎたかもしれませんし、もしかしたら自分が無能だと決めつけていい時期なんて一生来ないかもしれませんね。ありがとうございます。少し物事を複雑に考えすぎていたみたいです。これからは自分で決めた道一本に絞って精進していきたいと思います。