唯一の親友が自死。
今年3月に父親が自死しました。その際にもこちらに救いの言葉をいただき、なんとか過ごしてきました。(その節は誠にありがとうございました。)
親友にも父親が自死だったとは言えず、心配してくれていたのに会えば嘘を付くことになると思い、会えませんでした。
8月になり親友から珍しく着信があり、後からLINEしたら『元気にしてるか心配で電話しちゃっただけ』と。『会いたいなぁ』と書いてくれていました。私は独身ですが、彼女は2才になるお子さんがいます。コロナウィルス蔓延の緊急事態宣言下でもあり、また会って父親のことを何と話せばいいのかも迷い、『もう少しコロナが落ち着いたら会おうね』とお茶を濁してしまいました。
今月23日、彼女の訃報が届きました。自宅で自死していたと。
通夜、告別式と参列してきましたが、親友の助けになれなかったこと、ただ会いたいと言ってくれたことにすら応えられなかったこと、後悔しかなく、自分の首を絞めたいです。
高校時代から30年近く付き合ってきた親友に申し訳なくて、ご家族にも申し訳なくて、通夜の席でもお父様、お姉さま、旦那様に力不足をお詫びしてきましたが無力感でいっぱいです。
彼女の供養になるなら何でもしたいと思います。
私が思い付くのは写経だったのですが彼女もご家族も日蓮宗だったのですが般若心経を写経してご家族にお渡ししても良いものでしょうか。
また、自死してしまった魂?は仏様に成れないのでしょうか。物静かで知性に溢れ、優しい笑顔の彼女が心穏やかに休めるよう、供養となることをご教示いただければ幸いです。
生きていくことの意味が見出だせない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「親友」といえど他者の人生に及ぼせる範囲は限定的
こんにちは。
前回のご質問でご縁がありました。
大変なお悲しみでしょう。
今回は、「親友」の自死とのことです。
「親友の助けになれなかったこと」でご自身を責めているのですね。
「親友」だからこそ力になりたかった、そのご心中をお察しします。
ただ、そこにはやむを得ぬ事情があった、のではないですか。
「緊急事態宣言下でもあり」、自死した「父親のことを何と話せばいいのか」分からなかった、これは会うことをためらった十分な理由になります。社会状況に加えて、あなたも辛かったのです。辛かったから会えなかった、辛かったから助けられなかった、それでいいのだと思います。
また、仮に会っていたとしましょう。
あなたが、お父さんの自死を心に抱えたまま、どこか沈んだ表情で会っていたならば、「親友」の方がむしろあなたを気遣って何も言えない、そういう可能性もあったと思います。
加えて、「親友」の問いかけからあなたがお父さんのことを触れざるを得なくなって全て話す。すると、自死というキーワードがどのように彼女に作用したかは未知数です。それこそ、彼女がその後自死した場合、あの時あんな話をするべきじゃなかったと悔やむこともありえましょう。その場合、自分の言葉がより直接的に彼女に影響を及ぼした、とあなたは苦しんだ可能性はありませんか。お父さんとの悲しみに加えて、あなたの精神状態はもっと追い詰められていた危険性があります。
「親友」といえど他者の人生に及ぼせる範囲は限定的であり、限定的だからこそ「親友」という一定の距離をおいた親密な関係が構築可能なのです。つまり、あまり一人で背負い込みずぎない、「供養」しなければと力を入れすぎないことが大切だということです。
ただ、彼女の「供養」をしたいという気持ち自体は大切にしてください。
そのためには、まずあなたの宗派通りのやり方に忠実になることです。自分が何宗の立場で彼女を見るのかを定めることです。仏教の価値観に自らが参入せずして、客観的に「仏様に成れ」るかどうかを他者が述べても本当のあなたの納得にはなりません(浄土真宗では、命の終わり際のいかんに関わらず浄土往生ですが)。自分流の「供養」ではなく、正統な仏教的価値観に則った「供養」をお勧めします(「写経」を渡すべきかもそこから判断してください)。
では、どうぞお大事に。(字数制限)
供養とは
本来、特に目上の人をお世話することです。相手のためにもなりますが、目上を敬いお世話する功徳が自分に生じるので、自分にも相手にも良いことです。
「故人のために供養する」と言えば、直接何かしてあげることができないので、僧侶、寺などにお布施して、その功徳を故人に振り向ける「功徳廻向(くどくえこう)」という形で間接的に供養することになるでしょう。供養される僧侶の徳が高いほど、そして供養する施主の気持ちが清らかなほど、功徳はより大きくなります。
僧侶がお経を読むときは、最後に廻向の言葉があります。お経とセットで漢文で分かりにくければ、あるいはお布施だけしてお経に会わない場合は、全部終わってから「この功徳を○○さんと一切衆生に上げます・廻向します」などと自分の心や言葉で唱えます。
以上は仏式の特別な供養の場合です。
しかし、普段日常生活を送る中で、誰でもいろいろ善いことをお互いにしています。譲り合いやあいさつでコミュニケーション取ること、仕事やお使いも家事も、みんな善行為です。
ですから、生きている間はしっかりと生きて、毎晩寝るときに、「今日一日の功徳を○○さんと一切衆生に廻向します」などと念じて寝ると、毎日供養(功徳廻向)できます。そのためにも自分がしっかり生きることになるので、何よりも自分のためになります。
誓教寺ホームページhttps://seikyoji.jimdofree.com/の冊子のコーナーから『供養ってなに?』が読めるようになっています。ご参照ください。
質問者からのお礼
前回に続き、温かく冷静なお言葉をいただき、ありがとうございます。親友といえど他者の人生に及ぼせる範囲は限定的、これは私に驕りがあることの御指摘かと受け取りました。会っていたなら事態が変えられたかもしれないと、私の中に驕った気持ちがあるのでしょう。変えられはしなかった、そんな力は、人には無いのでしょうね。
写経をお渡しするのも自己満足の押し付けでしかないと気付きました。お渡しすることを考えず、彼女の冥福を祈って写経するだけにします。
辛くて悲しい、死んでしまいたい、私など生きている価値もない、文字にすると陳腐に見えてしまうのですが心の中にはそんな気持ちがぐるぐると蜷局を巻いて居座っています。こんな心の中に彼女を住まわせてはいけないと思います。少しずつでも、明るい綺麗な気持ちを取り戻して、彼女が大事に思ってくれていた私を取り戻して、その中に彼女を住まわせていけたらと思います。
心が乱れていて、文章がまとまりませんが何卒お許し下さい。寄り添ってお言葉を下さり、導いて下さる方がいることに救われます。今回も何度も何度も読み返し、お礼を申し上げるのが遅くなりましたこと、申し訳ございません。お導きに感謝致します。ありがとうございました。
誓教寺 慈照様
『供養』ということについて詳しく教えをいただき、ありがとうございます。生きている間はしっかり生きて徳を積み、廻向する。
今はまだ心が乱れており、自分のために…という気持ちにはなれませんが生きているのだからしっかりしようと思います。ありがとうございました。