あなたの重んずる仏教の言葉を教えて下さい
こんにちは。こちらに登録させて頂いてから、過去の問答をいろいろ拝読しております。
その中で、回答僧の方々がたびたび仏教の言葉を挙げているのを目にし、気になっております。
というのも、自分自身の心の働きを射とめた言葉に出会ったり、言葉によって仏教の考え方が端的に表されているなぁと感じる体験があったからです。(例:自灯明法灯明)
そこで、回答僧の方々に もし、印象に残っている・大切に思っている・ぜひ伝えたい、仏教の言葉など有りましたら教えて頂きたいです。単純にもっと仏教の言葉に触れてみたい気持ちもありますが、実際に仏教者として歩まれてきた回答僧の方々にはどんな言葉が印象に残っているのか、興味があります。
お時間のある時、お気持ちの向いた時で構いませんので、よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私からは二つ挙げたいです
こんにちは。
これまでにご縁ありました。
私からは二つ挙げたいです。
一つは、往生、極楽へ往き生まれるという言葉です。
人はしばしば命が終わることを死と表現します。
しかし、阿弥陀如来様のお心に生かされるものは、極楽に生まれてゆくと転換されます。
死んでゆくのと、生まれゆく。
これは、同じ事象について全然違う捉え方をしています。
前者は、落胆と失望の上の終焉、をイメージします。
後者は、仏様のおかげによる新たな生命の付与、です。先だった人と必ず(←重要)会える。後から来る人とも会える。希望に向かっての一過程、それが命の終わりだと捉えます。
広く一般に知られていながら、往生という言葉から私自身の認識を180度ひっくり返すほどの衝撃がありました。
もう一つは、親鸞聖人のお言葉(『教行信証』という書物)です。
「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」です。南無阿彌陀佛を聞いて、聞いて、聞きぬいたところで仏様から頂いた信心には救われる感謝の思いが必然的に付随する。だから、自然と感謝のお念仏が口から出てくる。
一方、南無阿彌陀佛を口で称(とな)えているからと言って、そこに信心、感謝が伴っていることとはイコールにならない。所謂、空念仏、中身の伴っていない念仏をしている可能性がある。
信心と感謝の伴った念仏か。
伴っていない念仏か。
表面的には、お念仏をしている姿は同じである。
しかし、中身は必ずしも同じではない。
中身を伴うお念仏をさせてもらえるよう、ひたすら阿弥陀様のお心を聞いて聞いて聞きぬきなさい、という聖人のご教示です。
この他にもたくさんありますが、とりあえずは二つを挙げました。
仏の心とは大慈悲
拝読させて頂きました。
あなたがとても仏教に関心を持たれていることはとても素晴らしいことだと思いますし、私も嬉しく感じます。
どうかこれからも仏教つまり仏様の教えを学んで下さい。そしてあなたの人生に役立てて下さいね。
今回のご質問のとても有難いなぁと感じます。普段は私たち僧侶も何気なく修行したりお経をおとなえしていますからあまりじっくりと考え直したことはないかなと思います。ですから考えるきっかけを頂いたように感じます。
私が信仰する教えはお念仏の教えです。口に「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とおとなえし、心から「どうか阿弥陀様仏様、私をお救いなさって下さい。或いは私の大切な方をお救いなさって下さい。その天寿全うする時には必ず仏様速やかにお導きなさって頂き仏様のお浄土である極楽浄土に往生させて下さい」とお願い致します。
阿弥陀様はそのような私達を必ず極楽浄土にお導きなさって下さいます。そして先に往かれた親しい方々やご先祖様方に再会させて下さいます。阿弥陀様は全ての方々をその様にお救いなされ導いて下さいます。
ですから「南無阿弥陀仏」が一番重んずる言葉です。
それと「慈悲」という言葉です。「仏の心とは大慈悲である」と経典に書かれています。先程申し上げました通り仏様は全ての人悩み苦しむ人々・私達を平等にお救いなさって下さいます。そのお救いなさって下さる仏様の心がつまり慈悲です。
仏様はいつでもどこでもどんな状況にあっても私達を慈しみ寄り添いなぐさめ支えていて下さいます。そして必ずお導きなさって下さいます。その仏様の心を大慈悲と言います。
その仏様の教えに巡り合えたこと、仏様の慈悲に巡り合えたことが何より尊いと思いますし、私がこの世に生を受けた意味であり目的でもあると思います。そして仏様の教えや慈悲やお救いをお伝えさせて頂くことこそ私が生まれ生きている使命でもあろと思います。
仏教には八万四千の法門ありと言われますが、突き詰めていくところこの「仏の心は大慈悲であり、全てのものを救うということが仏教の教えの根幹だと私は思います。
仏教とは「誰もが成仏できる」教えです。つまりは誰もが悩み苦しみを離れて円満に仏となることができる教えです。それは仏様の慈悲があるからこそ導かれ救われていくことができるのです。
どうかあなたもあなたにあった仏教を学んでいって下さいね。至心合掌
質問者からのお礼
和田隆恩さま
ご回答ありがとうございます。
「自利利他円満」は、初めて目にした時すてきな言葉であると感じました。ここでもお目にかかれて嬉しいです。人に親切にした時など、相手も自分も温かい気持ちになれるあの感覚が好きです。人間である以上、素直に他人の幸せを願えないような場面もたくさんあるのですが、この言葉を忘れないようにしたいと思っています。
「摂取不捨」は初めて知りました。少し調べて見ましたが、とても心強い言葉であることが感じられます。頂いたきっかけを元に学びを進めて参りたいと思います。
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Kousyo Kuuyo Azumaさま
ご回答ありがとうございます。
「南無阿弥陀仏」は広く一般に知られていて普段何気なく接している言葉だと思っていましたが、Azuma様の文章を読んで改めて、阿弥陀様を信仰している方には特別で大切な言葉なのだなぁと実感しました。
「慈悲」も美しい言葉だと感じます。人間がこの世に生を受けて、己の人生や環境を恨むことは簡単ですが、そこに慈悲を見出したとき人生を肯定的に歩めるのではないかと思います。例えば、辛い出来事に対し「なぜこんな経験をしなくてはならないんだ」と怒りに溺れるのと、「苦難は自身の学び・成長のため与えられた」と捉え精進の場にするのとでは、全く違うと思います。
私は人間であるので、個人的な愛の感情に振り回されがちです。ですが、広く平等な「慈悲」を意識して人様に接していきたいものです。
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釋悠水さま
ご回答ありがとうございます。
いくつもの宗教に、「死」に希望を見出す姿勢があり、私の目には興味深く映っています。
「往生」と聞くと、寿命で亡くなったご老人が、まるで宴会のような賑やかな葬式で皆に見送られながら旅立つ、といったシーンが想像されます。(いわゆる「大往生」)
正直、私は死後の世界については半信半疑なので、死にポジティブな感情を抱く感覚がイマイチ分かりません。しかし、死に希望を持つことは、亡くなった者達だけでなく今生きている者達にとっても心の支えになる重要なことであると思います。その上で、死を否定的でなく肯定的に捉える姿勢や、「往生」のような表現方法は面白いし、人間のたくましさを感じます。
親鸞聖人のお言葉からは、念仏をとなえる者を律するような姿勢が感じられます。こんにち、僧侶のコスプレをして念仏をとなえれば、誰でもそれなりにサマになると思います。ですが、形だけの宗教ではなく、真の信心を持つこと・真摯に仏様に向き合い続けることが重要であると仰っているように見えます。書物の中には、修行者を律する言葉が多くあるのだろうと想像し、もっと知りたくなりました。