正しさの感じ方
正しさとは、人それぞれ違うものと思います。
私にも私なりの正しさがあり、それを譲ることができません。
しかし人との関わり方として、色んな人の正しさを許容することが大事だと思っています。
ただ私は、我を抑えるのが苦手です。その為、それをわかっているはずなのに、誰かに私の正しさを反対されたり他人の正しさを言われた時に、ついカッとなって、(私の方が正しいのに!)と反論してしまいます。
心のどこかで”私の方が正しい”、”社会がおかしい”、と強固な壁を作っているものだと思われます。しかし私はこの壁を無くしたいのです。せめて、社会がおかしいのではなく人それぞれ意見が違うのだ、と認められるようになりたいです。
お坊さんは、このようなことを考えたことがありますか?また、仏さまの目線から見てこのような考えはどうなのでしょうか?また、よろしければこうしたら壁が崩れるのではないか等あれば教えてくださると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
正義とは時折り暴力にもなる
その正しさ、正義ということは間違えのないことなのでしょうか。
人の考えたルールに従うことは集団生活を送るためにはとても大切です。信号を守るとか、一方通行を守るとか、守らなければ命が危険にさらされます。
しかし、これらのことをよくよく見るとここに善悪はありません。
私たちの体には生まれつき名前なんてついてないただのこの身体がころんと出てきただけです。いつしかこれを私と言うようになり、名前をつけられて邦元とか呼ばれるようになっただけです。そしてこれを多くの人は自分だと思うようになったのです。思い込みにより自他の境を作ってしまっただけの話です。
きっと頭の中は→???でしょう。
目は信号を見た時その様子をありのままに見ることができます。受け入れちゃってます。そこに善悪、正義、なんでありません。
お友達の行動も同じです。
善悪もなければ、自他もない。あなたの目は友達を受け入れありのままを映し出しています。耳もそうです。友達が話している声をただ響かせ受け入れています。価値観が違っても問題にしません。そうした自我というフィルター通しを正義が出てくる前の事実が大切なのです。
正義というのは危険です。人それぞれの思いにすぎないから、妄想とも言えます。
妄想と事実どちらを大切にしたいですか?
人の価値観なんて、信用できないでしょ?
そちらを握らず物事との出会い頭、思いの出る前の様子を大切にしてください。
自分がどう思っても、他人がどう思っても、問題ではない。ありのまま目の前、今の事実が大切なのです。
もっと詳しく聞いてみたければ直接ご連絡ください。
壁でなくあなたの意見です
自問自答さん、素晴らしいですね。人の意見を傾聴する。素晴らしい能力です。意見を言い合える仲間を持つことも素晴らしいと思います。自分の意見も言えることは今後大切になってきますので自分の意見をノートにまとめるとかして文字に起こすと良いと思いますよ。
ただ、あなたが気になっているのが、人の意見に怒りが込み上げる時があるという事ですね。先ずは人の意見がでたら、6秒間怒りを我慢しましょう。そして、分析する力を持ちましょう。あなたが相手に伝えるべきは意見の長所を6割短所を4割として伝えましょう。
忍辱という仏教用語がありますが、意味は「寛容になること」です。あなたが身に着けるべきはこの忍辱です。これは忍辱の鎧と表現されることがありましてあなたを守ってくれる武器となります。そのために精進(努力)し、禅定(落ち着いた心と行動)を取り入れ、布施(人に優しい心を分け与える)を実践して、持戒(決めたルールを守る)に気を付けて、智慧(知識を良いことに使う)を身に着ける。
(※解釈は色々あります。)
さあ、今から実践してみましょう。ハスノハではオンラインでも相談を行っております。私はあなたの意見を一度きいてみたいなと思います。