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不倫した夫と別れるか、もう一度頑張るか

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2ヶ月前に夫の不倫がわかりました。
私は2人の子育てに忙しく、夫の仕事柄生活リズムも合わず、すれ違いとコミュニケーション不足の生活がここ5年ほど続いていました。私も夫への関心はなくなっていました。

今年に入って夫が転職で退職をしたのを機に以前の職場の部下であった女性と半年ほど関係を持っていたそうです。
不倫が分かってからはマメに連絡をしたり、話し合ったり、今まで続かなかった早起き(子どもたちを朝見送る)をしたりと家族に向き合う姿勢は見せてくれています。

このまま様子を見てまた夫婦として頑張るという気持ちと、夫に振り回される事の多い人生より自分で地に足をつけて生きていくほうがスッキリするのでは?との気持ちで揺らいでいます。

専門家や友人に相談したところ、焦らず経済的に自立して、その間に考えていけばいいよとの意見をもらい、少しずつ出来る事をこなしている状況です。

気持ちや考えは理解できても、行動に移せない事も多くて布団に入ってぼんやりと時間がすぎたりすることも多く、どうやって前向きな自分になればいいのかと悩んでいます。

子どもたちに安心して過ごして欲しいというのが1番の願いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

公的な相互扶助関係の最重要視婚姻関係から愛情の再芽生えを期待

私があなたの立場だったらこうするよ、という独り言を。結論先に。(# ゚Д゚)ムカつくでしょうが今は子供たちの為にも「20年後に思いっきりぶん殴る」という視点で20年後に心の視線を向ける。(*´▽`)👊
あえて動物の世界に学ぶという視点でお話しを。女王バチは優秀な子供を産む・た・め・に、その為だけに多数のオスと交尾♂♀します。♨
大切なのは次世代。カマキリなんぞは食っちまうのですよ!次世代の為に。オスの右のアレから左のアレまで。うげ。人間も生物ですので狡猾なドロボー猫や女王バチカマキリ系女子に旦那のナニらお金まで食われちまう前に!あえて我が家のA・T・M!(USA風に)のTHE檀那(仏教語ドナーが由来)を守ると心をセットすることをお勧めします。ここでダンナを憎み対立ゾーンに位置すると旦那ATMが他部族カマキリ女王バチの餌食になるだけ。生活苦。ピンチ!危うし!子供たち!オムツ!生物世界にモラルはありません。相手の会社・家庭に連絡してその腐れ女子は排除。人間も生物ですがモラルや人間性を失った人間は動物。人間は愛や守るべきものを守るから人間なのです。自分にやさしくかかわってくれる存在だからこそ守りたいと思うようになるのです。危険!その👩!人間世界の愛される存在に焦点を当てるると愛されキャラ性質が抽出されます。愛されエッセンスを持っている男・女はどういうわけか愛されるのです。あなたにもそれはありダンナにもそれがある。無自覚ながらそれ+α+ATMがあったからあなたも結婚した面はあるはずです。ところがお二人のバランスが崩れてしまった。ここで他存在を原因としない!まずダンナも生物・生命として愛ややさしさを求めて「いた」のです。勿論不倫や浮気はいけません。愛し合って結婚したということはお互いの不足や満たされない欠如を補い合えるからこそ今から再夫婦になれるという視点。愛情不足のダンナの枯渇を補ってあげることはパートナーの役目です。ですが、男性側が人間性アウトでショーモナな人で単純に他の女性から愛されたい、もてたいというだけで浮気に走る場合はパートナーのあなたには何の責任もありませんがそれでも10:0はありません。結婚前に相手の人間性の程度・嗜好にきづけなかっただけです。よって、立場を変えて他の女王蜂から一族を守る姿勢で価値感を変え、容赦の精神でダンナを振り向かせましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
20年後を考える。
未来の事を考えると不安しかなかったですが、今の自分が未来につながると信じて頑張っていきます。
ありがとうございました。

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