うつ病が治らず生きる意味がわからない
36歳専業主婦です。
14歳から気分変調性障害を発症、常に希死念慮に苛まれながら生きてきました。
25歳で大うつ病とパニック障害を発症、一度は寛解したのですが、31歳での過労で大うつ病が再発、以降ずっと通院と服薬を続けていますが、働ける見込みが立ちません。
病気で極端に気力体力がなくなり、また、強い音や光にも弱くなりました。
人と会うのもしんどくなり、友達も減りました。今は夫と両親と猫と主治医が身近な存在です。
いくら治療をがんばっても社会復帰できる見込みが立たず、生きている意味がわからなくなりました。
追っていた夢も追えなくなり、趣味も楽しめなくなり、患者として制約の多い日常生活を送らねばならない、なぜ生きなければいけないのかわかりません。
今、私の手元には致死量の薬剤があるので、それを飲めば死ねます。
しかし、植物人間になってしまう可能性もあるため踏み出せません。
うつ病の症状で死にたいのではなく、病気が治らず働けず、自分のやりたいこともできず、ただ死なずに存在しているのみという状態が苦しいです。
仏教ではどのように考えるのでしょうか。
穀潰しの病人を肯定してくれる理屈はあるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生死一如である命、急いでもいきつくところは皆同じ
拝読させていただきました。
仏教では「今」を生きることが答えになります。
それは何故なのか?
みんな今を生きているよ!と思うことかも知れません。
しかし、今を生きているようで「過去の苦い思い出や、克服できなかった過去や、過去の不安から今を通り越して、まだやっても来ていない未来を考え不安を大きくさせた生き方をしている人が多い」からなのです。
今を生きることは簡単なようで、実はとてつもなく難しいことです。仏教では諸行無常というすべての事象は同じものをとどめることなく、常に変化しているからです。
いわゆる何事も瞬間を生きている「刹那」と仏教ではとらえます。
今は二度やってこず、過去はすでに捨て去られているのであり、未来もまだやってこないのです。
◇釈迦はこのように説きます。
「過去の原因を知りたければ、現在の結果を見よ。未来の結果が知りたければ現在の原因を見よ。」
何事も「原因という縁があり、その縁に依り、自身の心(決断力)で未来は変化していくという因果の法則なのです。」このとどまることなく常がなく続いている因果の関係性を因果律といいます。
心には壁もなく、自身の中で心に蓋をしてしまっていたり、自己評価を高めてしまうことで気分が減退していきます。
他人や自己評価を比較するのではなく、ただただ今あることを観察してみてください。自分の顔を自分では見ることはできなく、鏡があれば見ることができます。このように自分自身の心の状態も見えているようで常に動いている心相続には、自己を見つめることが難解なのです。
仏教では、法鏡という言葉があります。これは、仏教を学ぶことで自分を発見することができるということです。
知識や世間をいくら知得したところで、自身が満たされなければ、意味があるようで無意味と自身を虚無感へと追い込む材料を心に注入する原因となるのです。
年齢や経験なども自分と比較しないことです。過去は過ぎ去っており、今がすべてであり、今からスタートです。
人生に小さくてもいい。自分の心に花を咲かせてあげれます。必ずです。
合掌
南無大師遍照金剛