人は変わりますか?
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタは糸が切れ地獄に落ちましたが、仏様は再び糸を垂らすのでしょうか?
私は人を助けるとき、見返りよりも結果何も変わらず同じ過ちを繰り返す人を見るととても悲しい気持ちになります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
業の因縁
海月さま
芥川龍之介氏の「蜘蛛の糸」は、仏教的に考証すればいくつかおかしいところがありますが、著者の狙いは、やはり、善因善果、悪因悪果という「業の因縁」について指示するものであるかと存じます。
それを気づかせるために、善因によっての善果として蜘蛛の糸をお垂らしになられると共に、自らの行いの悪因により、悪果として糸が切れたこと、その業の因縁を身を以て知らしめられたということであると考えます。
その結果、カンダタ、そして読者に善い因縁に励まさせしめていくということの重要さについて気づかせていくためという効果に、内容の意図する狙いがあると存じます。
ただ、この物語の終わり方は、ややニヒリズム、シニシズムを感じざるを得ないところがあり、釈然としないものはあります。
私が考える続きとしては、この業の因縁の理に気づいたカンダタが、地獄でもできる他を助けていく善き行い、功徳を積むことで、その結果としてやがて自らの行いにより地獄から抜け出していくことになるということを想起したいところではあります。
または、地獄で積む功徳により、たとえそこが地獄であっても、すでに自分には極楽に変わっている(地獄はそのままであっても、皆が助けてくれて、苦しまなくて済むようになっている)ということが意図されてあってもとは存じます。
人が変わっていくためには、やはりこの「業の因縁」を身にしみて理解しなければならないかとは存じます。
「業の因縁」の重要性を更にお伝えして参りたいものでございます。
合掌
質問者からのお礼
eishun様
返答をしていただき、誠に有難うございます。
たとえそこが地獄であっても、すでに自分には極楽に変わっている。というお言葉を受け、同じ見ている地獄にも、相手が見えている景色には私と違いがあるのだと痛感しました。
人間の業について改めて考えさせて頂きます。