私のせいで母は天国にいってしまった
母をくも膜下出血で亡くしました。
自宅で私と一緒にいたのですが、
朝起こされて見ると廊下に倒れていて
痛いと言っており、どこが痛いか聞いても痛いしか言わないので怒ってしまいました。あのとき病院に連れて行っていたら助かったはずなのに…
廊下で寝だしたので布団を掛けて、寒いと言うので暖房を付けて、私は母が眠っている間に家事をしていました。一度母は起きてトイレに行き、また廊下で寝ていました。しばらくして起きてこないので起こそうと思って横向きに寝ている母を起こすと、既に息はしていませんでした。救急車に運んでもらいましたが、既に手遅れ。息がなくなっていたのはお医者さんによると救急車を呼ぶ30分前くらいだったそうです。私が早く病院に連れていけば、痛いと言った時優しくしていれば、もっと母と仲良くしていればこんなことにならなかったのに。私が今まで母に優しくしてこなかったせいで、まだ60歳にもなっていない母を死なせてしまいました。
母に謝りたいし、感謝の気持ちも、大好きだという言葉も伝えたいに、もう母に私の声は届きません。母が最後に聞いた私の声は、きっと怒った声です。
母は生まれ変わっても私と一緒が良いと言ってくれたことがありますが、こんな私に対して今も思ってくれてるでしょうか、思っていてほしい。こんなひどい私だけど思っていてほしいと願ってしまいます。
母を死なせてしまった私が、今母のためにできることは何なのでしょうか。私の思いは母にどうやったら届くのでしょうか。
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いっしょ。
ご質問拝見しました。
突然の別れによる悲しみと嘆きがもちさまに襲っているかとお察しします。
くも膜下は、私も近しい人が何人か経験してますが、場所に左右される場合が大きいです。ある意味、運や縁の影響を受けます。
あなたの思いの前に、
私が母の立場なら
私が倒れたばっかりに、あなたに後悔と心配をかけてしまった。最後の最後までごめんね。
と思います。
涅槃経では
『弟子たちよ、今は私の最期のときである。
しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。
肉体は父母によって生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、壊れることはやむを得ない
仏の本質は肉体ではない、さとりである。
肉体はここに滅びてもさとりは永遠に法と道とに生きている。
だから、私の肉体を見るものが私を見るのではなく、私の教えを知るものこそが私を知る
弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたくしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである』
とお釈迦様は説いてます。
今できること
・母に心配をかけさせない。
・成仏を願う。
・この世や人の生は、縁や運など様々な要因要素で成り立っていることに気づく
・別れは悲しいが生前の厚情にありがとうを伝える
・自分を責めない。母を忘れない
・母がいのちを賭した教え→健康は大事。
・母の分までちゃんと生きる
そうは言ってもお辛い気持ちがすぐ消えるわけではなく、時の力が必要かと思います。
でも、どこか知らない場所や外にいるときの発症でなく、もちさまの傍でこの世の務めを終えたのは悪いことでなかったと思いますよ。
お身体ご自愛ください。
質問者からのお礼
泰庵 様
すぐにお返事してくださり、誠にありがとうございます。
お返事をいただいた日から何度も何度も読み返しておりました。
涅槃経でのお釈迦様のお言葉は、今の私にとってとても響く有難いお言葉です。
また、今の私にできることを教えてほしいという問いにしっかりとお答えくださって、心が救われました。
母に会える日まで、母の分まで家族と過ごす時間を大切にし、家族共々長生きできるよう健康に気を遣って過ごしていこうと思います。
まずは、母に産んでもらってここまで育ててくれたことに感謝をし、別れは寂しいけれど四十九日には成仏を願えるようになりたいと思います。
自分を責めずに、母のことをずっと忘れず大切に想い生きていきます。
いただいた文章は、私にとってお守りのような存在です。
本当にありがとうございました。