他人から自分への善意が信じられない
中学生あたりの年齢から、
30歳の今に至るまで
他人の言動や行動に対して
「どんな表情や言動でも、実際はどう思っているのか分からない。」
「世の中に悪い人は沢山いる」
という意識から抜け出せなくなってしまいました。
そこに至る理由は、
Aちゃんのカチューシャを皆の前で褒めちぎっていたBちゃんが居なくなった直後に皆と馬鹿にしていたり、
私が片思いしていた先輩へのプレゼントを他の子が「仲良しだから渡しといてあげる」と預かり捨てていたと知ったことや、
親友と思っていた子が裏ではとても酷い悪口を言っていて、それを楽しげに他の子に暴露されたこと、
親のとの関係や親の不倫など、
今思えば思春期にはよくあるような事だったのだと思います。
しかし、生活する上で仲良くしてくれようとする後輩や先輩、上司、周りの人達に対しても、私を貶めるに違いないという気持ちからか以下のように思ってしまいます。
褒められる
→私が喜ぶ言葉を言おうとしている。返しに困るからわざわざしないでほしい
話しかけられる、ご飯に誘われる
→気を遣って無理に話さなくてもいいのに
いい病院/飲物/物品を紹介してくれる
→そうやって紹介して益を得ようとしているのか、腹立たしい
心配される
→そんなアピールしなくてもいい、そうやって自分が自己満足か
おかしいとも思っていますししんどいです。
どうしたらいいでしょうか
ずっと生きていることがつらい 人と上手く関係が築けない 表面上は誰とでも仲良くなれるが、一定以上近くなると縁を切ってしまう 恋人と対等な関係が築けない どうせ分かり合えないと思ってしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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一般論としては他者は信用できません
一般論としては他者は信用できないものだと私は思っています。
私はhasunohaの回答のなかで、しばしば私たち夫婦の仲人夫妻の話をしています。仲人夫妻は私たちに最初の出会いから縁を切られるまでずっと嘘と、侮蔑や否定の言葉以外は言われていません。陰に回って周囲の人々に私の悪口をしか言いません。本当に醜いことです。家内は私より以前は醒めた見方をしていて仲人夫妻に腹を立てる私をたしなめるようなことを言っていました。
ところが、仲人夫妻の妻(お寺の奥さん、だからダンナは住職で私が在籍していた学校の先生)が家内と同じ滋賀県立八幡高校卒であることを嘘をついてまで隠していたことが発覚してから家内の見方も変わりました。同じ高校の通学圏に住む同じ宗派のお寺同士ですから、嘘をついてもすぐバレます。つまり嘘をつかなければ生きていけないような生来の嘘つきがそのお寺生まれお寺育ちのオバサンの本性ということです。
だから、あなたも基本的には他者を信用しない方がよいと思います。では、誰も信用できないのかというとそうではありません。世の中には本当に信頼できる人は確かにおいでになります。誰彼となくひとを信用したらトンデモナイ結果になりますから止めた方がよいです。けれども、よく「親友と呼べる人なんて人生にそう何人もいない」と言われますが、ごくわずかに本当に信頼できる人はいます。
では、どうやったらそんな人と巡り合えるののでしょうか。信頼できる人を見つけようとするというより、他者に信用されるような自分になることじゃないでしょうか。そんなふうに考え方を変えることじゃないかと思います。
実例を挙げると、友達に裏切られて割腹自殺を試みた大平光代さんがおいでになります。他者が信頼できないと自殺までなさろうとした大平さんは生き方を変えて他者に信頼される方になっておられます。私と一緒に子ども食堂を運営しているご住職も信頼できる人を見つけるのではなく、他者に信用されるように生きておられます。
以上が少しでも参考になったなら幸いです。