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生きることは愛ですか??

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生きる事は愛だと教わりました。
教えてあげられる事はそれだけだと教わりました。

これまでに自分がどんな気持ちで生きて来たとか、悲しかった、苦しかったということは、今はもうどうでもいいと思います。
自分の人生は自分の責任と省みると、世の中を恨み人を責めることもなくなると考えるようになりました。

喜怒哀楽の感情がある事にも喜びを感じますし、感情があって良かったと思います。
その中から愛は何かを考えてみましたが、
私の愛はみんな自分の為に行き着くことで、自分が幸せで気分よくいたいから、好きな人から想われたい大事にされたい、他人から認められたいなど考えているんだなと感じました。

愛とは何ですか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間は存在そのものが愛のはたらき

私も愛がよくわからんかった頃、車の運転中に師匠に尋ねましたら後部座席にいた師匠が「俺がこうしていることも愛だ」と。
幼少期から育てて頂き、車の免許も取れる程になりまちた。運転しながら話もできるようになりまちた。知ったことを人にお伝えちて困ってる人がいたら助けになるように転ずる力も頂きまちた。👦「菩薩と仏とは何が違うのでしょうか?」「菩薩は人を救わんといかん。仏は救わんでもいいようになることだ。」「?」
その後師匠は私に公案を。「釈迦と孔子とキリストがおった。そこに男が通っても立派な人がおるんで緊張して転んでしまった。キリストは❝立ちなさい。大丈夫ですか?❞と手を差し伸べ、孔子は❝次からはちゃんと前を見て歩きなさい❞と教訓を。釈迦はただニッコリしているだけだっと。このニッコリ顔の真意はなにか?考えておけ。」と。そこに愛あり大宗教性あり。
それは宿題として、愛というのは存在自体が愛発祥。人間は愛より生まれて愛によって花開く。菩提心より生まれて菩提心で共鳴し、菩提心を弁えたものがまた菩提心を説いて人々に菩提心の華を開かせる。
元々愛も菩提心も慈悲もどこにでもある。
お母さんを失った幼児が母に代わる愛を心優し人に見出すように、人は愛を拠り所としつつ、また自分自身がその愛によって共鳴するように愛の当体、本体です。
それを妨げるのは自己愛、我愛、自分だけという自己中心的な愛です。だから流行ソングに自己中でイイじゃない♪みたいなことがあったらそれは愛ではないヨとより高い愛を示してあげるのも愛。不倫は文化だなんてことを言った人は結果的にどうなり世に何を生んだか。愛の名の下に何でもアリは愛ではありません。真実の愛をベースにおかしな自己愛感染に向かわぬよう、自利利他という自分も愛によって益され、他存在も愛によって益されることが愛です。
お寺の集まりで何やら厳粛な会議がありまして。コロナコロナですからみんなピリピリしとったのですわ。そこで、主催者の人が「みんな…なかよくでお願いします」と。その一言があって厳粛な雰囲気がなごみました。もともと人は安住の地がある。安住のお風呂、温泉がある。そこが愛なのです。そこから出て行ってなにやらピリピリしなければいけないようなアンチ愛の世界に向かうようになる。それでもたった一言で温泉に浸かれるようになる。その安心の安地を愛という。シャレかい。🍷

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

愛とはどこまで言っても自己愛である

人間というのは自分の存在を脅かすものを愛することはできません。

人間の持つ愛は自己を愛する心であり、生存と繁栄の欲求です。
この自己を、どこまで広げられるか、ということなのです。

夫婦の契りを結んだとき、パートナーを“自己”の範疇に含めることで愛を抱きます。
地球環境を守りたい人は、“地球に住んでいる”という意識が強いのでしょう。
所属感、親近感、被支配感と支配感
様々な形態をとりながらも、広がった"自己"の範囲の中に抱く好意を私は"愛"と呼んでいます。

キリストは神という世界の上に立つ存在の視点に立ち、世界が神の自己に含まれているという神の自己愛、『アガペー』を発見しました。
一方で仏陀はインドのカースト制度から"出家"することで人の営みを眺めて縦割りの"愛"に気づいたのです。

愛の正体とは人間が持つ生存本能そのものであり、自己防衛の自己愛です。
そして愛を広げる方法は、自らの心を鍛え、共感を広げ、世界に根を下ろした一つの命だと自覚して生きることです。
無関係を断ち、関係を結び、世界と関わることです。
世界との縁を知覚し、声を聞く。
仏教の修行者の呼び名である"縁覚"、"声聞"とはそういう意味なのです。

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有り難し
おきもち

日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

質問者からのお礼

丹下 覚元様

ご回答いただきまして、ありがとうございました!

転んだ者に対しお釈迦さまがニッコリ笑っていた意味、無言の愛もあるのですね。
深く深く考えてみたいと思います。

自分の為の自己中な愛は小我、他人や周りのものの為の愛が大我と言うことでしょうか🧐
「花が好きな人は摘んで部屋に飾るが、本当に花を愛していたら花を摘まない」という言葉を思い出しました。

みんな仲良く!
自然でわかりやすい言葉ですが、実行するのはなかなか難しい事だと感じました。

たくさんの学びをありがとうございます。
もう一度、ゆっくり考えてみます!
ありがとうございました^^

けいじょう 様

ご回答いただきまして、ありがとうございました!

愛はどこまで行っても自己愛。
自己に含まれる好意の範疇を広げて行ったら、他人も自分であるという気がしてきたのですが、それで合っているでしょうか🤔

この世に生きる、この世に根を下ろしたひとつの命であること、命は尊いものだという事を忘れずに、ご回答を何回か読み直して理解を深めて行きたいです!

ありがとうございました!

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