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過去にいじめていました。

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有り難し有り難し 10

小学校のときに何回か3人で障害あるの方を無理矢理鬼ごっこをして鬼になるようにその方ばかり狙ったことです。
その方は「いやーー」って泣いて逃げていましたが自分はその反応が面白くて追いかけて鬼にしました。
記憶が曖昧ですが、考えれば考えるほど
もしかすると鬼になるように必死で加減も分からずに髪や服を引っ張ったり体を掴んで動かないようにしたりなどして強引にしたのではではないかと思うとすごく後悔しています。
ある人に怒られて辞めましたが傷つけたことには変わりないです。罪悪感で夜も眠れません。
どう向き合えばいいでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

七倍の善玉菌活動を。

悪意は善意の七倍の速さで広まるとか。噂や悪事は高速。光速。
数値はどうであれ、世界に24時間、よきことがあればみんな幸せ。反対であれば世界はハラスメント共和国。
因果応報とはいじめの場合、いじめた側がいじめられる側の心理を知らずにいじめて、そのいじめの気持ちが後後になってわかるということでもあります。
今になってあなたはそれがいなやことだった、ハラスメントだったと気が付いたわけでしょう。
そして、同じような心を何らかの形で味わうようになると思います。
人の痛みをそこで知るようになるでしょう。
では、そこから逃れる方法はなにか。
あなたが今後すべてのハラスメント行為に対してNGを示して、それが行なわれることを全力で阻止することです。いじめもハラスメントも誰も救われないと思いませんか。それを肯定することは戦乱がつづく国家のように力で弱者が虐げられるだけ。
誰も救われません。
沢山の兵士を殺してしまった歴史の将軍も、その兵士たちに家族があることを知らない。いざ自分の家族が殺されるということになれば自分も嫌だと今更騒ぎ立てる。だったら、争ったり、誰かを傷つけたり、攻撃行為ということをしないほうが良いわけなのですが、現代に置いても様々な形で相手のマウントをとるという野蛮な行為が令和の世の中でも続いております。
その負の繰り返しこそ負の輪廻、負の連鎖、負の繰り返しというモノです。
あなたをはじめ、今、この文章を目にされた方々は、この文章の中の作用だけをくみ取り、文の真意だけを読みとって、人として本当にあるべき大きな菩提心に目覚めて善行をおつとめください。
コロナやいじめやハラスメントは負の共有でしかありません。
その負の連鎖こそが一番の愚かさであり、害悪なのです。
だからこそ、その大いなる負の連鎖を生み出す大いなる罪悪・大過・悪業そのものをまず断つ。自身の中からも断ち切る。そして、今後の人生でそういうことが起きた時に、止めてあげること。そして、その愚かさ、おそろしいこと、わるいことを知らせて、無くすことにつとめることです。
私は七倍でも足りんと思っております。
良いことをすることですら、いい格好をしていると思われることをおそれてやらない人が多いこの地獄。あなたが過去の償いの為にもみんなでこのハラスメント王国をたてなおして、助け合い王国に転じましょう。善導。善導。善玉菌。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しいところ回答してくださり
ありがとうございます。
自分の心はとても歪んでいます。だからたくさんの人を傷つけてしまいました。
この歪みを無くしていけるように残りの
人生やってしまった
たくさんの過ちを反省し誰かの役に立てるように生きていこうと思います。そしてこのお言葉を大切に駄目なことは駄目だといえる強い人になれるように頑張ります。
本当にありがとうございました。

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