生老病死
数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。
ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。
そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。
般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。
生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。
「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。
即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。
従って仏教の救いは死後にあることになります。
しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。
それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。
そのことを阿含経は下記のように述べています。
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)
前略
その時、世尊はかように仰せられた。
比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。
まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。
後略
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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感想まで
こんにちは。
ハスノハでの回答があなたの学びに生きたようで何よりです。
一読したところ、ご質問ではなくあなたの仏教理解の軌跡をお書きになりたかったのだと受け取りました。
今後ご自身で、またハスノハを通して学びが深まるといいですね。感想まで。
苦しみが無くならないと知るのも救い
輪廻から解脱しない限り苦しみが無くならない、つまり生きている限り宿題が無くならないのは事実だと思います。
ただ、苦しみが無くならないという真理に気付くだけでも私達には救いになると思います。
苦しみの形が違うだけで、苦しみに優劣はないのかもしれない。
だとしたら必死こいて他人と宿題の優劣を競ったり、違う種類の宿題を求めて愚痴ったりする必死が無くなるかもしれませんね。
質問者からのお礼
釋 悠水 ご住職様 ご回答を有難うございます。
ここは人生相談が大勢ですね。しかしテーマが仏教であれば、説教の通説に違和感を持てば発言できるかと思ってお邪魔しました。
例えば、先年たまたま浄土宗のご住職様と文通が出来て、私の質問に次のようなお返事を頂きました。
「たしかに、浄土真宗の教えでも、迷い苦しみ続けるという意味での『輪廻』ということは語ります。
法話の最初に唱和する『三帰依文』でも、『この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん』と述べますからね。」
とのことでした。
「いづれの生においてか」とは何度か生死を繰り返す「輪廻」を意味していますから、このことが「輪廻転生」そのものですし、「この身を度せん」が解脱(度一切苦厄)の事ですね。これは「仏教の目的」そのものです。
それを法話の最初に唱和することは最重要な命題で、これを軸に説法を始めるべきではないでしょうか?
親鸞会に参加したことがありますが、これに反する説教ばかりでした。
この唱和が浄土宗に普遍のものだとしたら、浄土宗こそ「仏教の目的」を前面に押し出すべきではないでしょうか?
願誉浄史 ご住職様 うっかりご回答を見逃しまして大変失礼しました。
その節は大変貴重な資料をご紹介くださいまして有難うございました。
ご回答については、輪廻転生を真実とした前提でお話させて下さい。 そうしないと傲慢に見えますから。
最大の苦しみは死だと思いますが、四苦での死は仏教では死とは言わず、「往生」と申しますね。という事は心が生きているからです。この世(こちら側)からあの世(あちら側)に移り、「涅槃(心の死)」に至らなければ「浄土」でも心は生きています。
「自然の摂理」は津波や火山爆発による理非尽な死もあり中村さんの殺害もあり、ロシアの核暴走の可能性もありますから、我々は何時死が訪れても不思議はありません。
しかし心は生き続けるのです。四苦の「死」は身体の死です。身体があるから苦しむのですから、輪廻転生が真実であれば、命は尊厳のかけらもありません。
そうは言っても死ぬのは恐いですね。(笑)