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笑うことをセーブしてしまいます。

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有り難し有り難し 6

子どもが二人いる、アラフォーの主婦です。
私はうまく笑うことができません。
ママ友やパート先の人とはたわいもない話で盛り上がって楽しくお話しすることはできますが、家族とはできません。
それは私の父が関係していると思います。 私の父はもう20年以上、精神的な病気を患っており、一人暮らしをしていた学生の頃は何かあるたびに電話攻撃を受け、人格を否定されるような言葉を浴びせられてきました。
社会人になり、すこし落ち着いてはいましたが、2人目の里帰りのとき、どうしても許せないことが起こり、そこからほぼ絶縁状態です。
なぜ父が関係しているかというと特に学生時代ですが、何か楽しいことがあった直後に父からの電話でどん底に落とされる、という経験を何度かしてきたため、何か楽しいことがあると父からの攻撃を受けるのではと考えてしまい、必要以上に笑わなくなってしまいました。
私は幸せになってはいけないのでは、とすら思っています。

先日主人に、「全然笑わないよね、俺にはいいけど、子どもたちとはちゃんと笑って話してるのかな?」
と心配した感じで聞かれました。
私だって思いっきり笑って過ごしたい。
けど、トラウマのようになっているためできません。
このまま父が亡くなるまで続くのかと思うと、早く亡くなってほしいとすら思ってしまいます。
どうしたらこのような状況から抜け出せますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

①第九おじさん
坐禅会で「ぜひみんなに聞いてほしい」とベートーベンの第九を歌ってくれるというおじちゃんのお話です。おっちゃんはカセットテープレコーダーを持参してスイッチ、カチャ。曲が始まってもなかなか歌い始めないので。どうした?と思いました。いざメインのところが始まりました。
「下のパートか!」(そっちかい…!)
…ぷぷ…(;'÷')…←笑いこらえる私
坐禅会の人たちはいわゆるメインのフレーズを歌うのかと思ってみんな期待していました。笑っちゃいかんと思いうつむいている人たちも。想像してみてください。
その後10分以上にわたりおじさんの「あまり歌わない歌」が会場に流れました。あの出来事は一生忘れられません。

②坐禅会にマイケルジャクソン
坐禅会で足の組み方がわからないと女性から老師に質問がありました。すると謎のおじさんが立ち上がり、姿勢を正すには股関節を意識して腰の後ろから前に突き出すようにして腰を入れるといいと力説が始まりました。「腰をこう!こうやって前にこう!こう!」
その時のマイケルジャクソンのような、レイザーラモンHGのような、K-POPダンスのような腰をカクカクと前後に動かすおじさんの光景に私はぐっと笑いこらえるばかりでした。
あとでじわじわくる話なので笑えるようになっていただければありがたいです。
さて、男性、オスというものは女性の繊細な心をよく理解できないだけです。
頭ごなしに。力で制圧。無理やり。そんな言い方では効果がないのに。つい男性社会の強行突破ルールで相手の人間性まで変えようとしてしまう人がいますよね。
人間の都合で無理やり相手を変えようとするところがあるというだけだと思います。
あなたは確かにお父さんに小さいころから抑圧されてきて一方的にしゃべられるので心を閉ざし気味になってしまっているのだと思います。
無理に合わせちゃう心理があって、それがかえって抑圧作用になっているのかもしれません。それは自分で自分を安全地帯にとどめておこうとする心理があってそうなっているのだと思います。
坐禅は自分の過剰な自分防衛ルールも解除することができます。
お父さんの人間性はいまさら変えられないでしょうから、まずはあなたがお父さんい高い人間性を要求することをやめてみる。お互いに。お父さんは戦後、厳しい状況の中で育ってこういう言い方になってしまっているのだろう、と。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

相手を変えることはできないので、まずは自分が変わっていけたらと思います。
ありがとうございました。

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