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自分の心の穴に向き合う方法を知りたい

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有り難し有り難し 22

質問するのは初めてです。

私は基本的に自分のやりたいことしかせず、自由に好きなように生きています。特に何かを変えたい、何か辛いとは思っておらず、楽しく暮らしています。

そのはずなのに、ふとした瞬間に空虚感を感じます。車の中で5時間ほど動けなくなってしまったり、ふと海の中に沈んでしまいたくなったり。原因は特に思い当たりません。トラウマも悩みもありません。楽しい予定が終わってしまった後に来ることが多いですが、特に理由もなく虚無状態に陥ってしまうことも多いです。

私はただ自分が生きているだけで業を背負っていると思っています。これまで多くの人を傷付けてきました。
許されたくもないし、救われたくもありません。一生背負い続けなければいけない罪だと思っていますし、私はその重荷を背負いながら無責任に愉快な毎日を続けていきたいと思っています。
だから、私が虚無状態に陥るのは自業自得なのでしょうか?自分の選択の結果なような気もしていますが………
楽しく過ごしているその瞬間も、心の奥がジクリと痛むことがあります。

荷物を投げ捨てたくはないですが、虚無状態に陥って自殺願望が浮かんだその瞬間にソッと荷物を傍に置く方法が知りたいです。
自分の心の穴を埋めるには、埋めるのが厳しいのであれば 見つめるには
やはり悟りを開くしかないのでしょうか?
支離滅裂な文章ですみません。もしこれらの文章を読んでなにか思うことがあれば、お返事をして下さると嬉しいです。明瞭な回答でなくても構いません。私がしている質問が非常に抽象的なことは分かっているので…………

読んでくださりありがとうございました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

向き合って覗きこんで落っこちるよりは

はじめてのご質問ありがとうございました。
勇気が要ったこととお察しします。

穴は入ると落ちます。
向き合わずとも時の力で埋まるまで避けた方がよいですね。

『多くの人を傷つけてきました』
とミュウさまは仰ってますが、同じくらいご自身が傷ついているのではないかと気になりました。

楽しかった後のロスではなく、自身が傷ついたことによる穴の可能性はないでしょうか。

やりたいことしかやらないことって、欲に振り回されてるだけの恐れがあります。
欲ベースだと生きる世界の範囲が狭くなりそうな気がします。
感情や欲の飼い慣らし方が、もう少し上手くいくと荷物はクロークに預けることがしやすくなるのかなと思いました。

なんか、うまく回答になってなくて申し訳ないですが、感じたことを書かせていただきました。

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有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

超絶壮絶がっかり喪失空虚感からの立ち直り方法 花持たせ

人間は知らぬが仏ならぬ、知らぬがうちにマイルール幻想ボツ却下な状態があるものです。(ナンダソリャ)
知らないうちに自分で自分ルールを立てている。勝手に妄想勃発。この世の中に対して、自分が出会ったことに対して、自分が自分流の身勝手なルール、理想、都合、願望、イメージをハリセンボンが自分を膨らまし、カエルが体を膨らますように、あるいはクレヨンしんちゃんの原作者が死んじゃっているのに新しい映画ができていくように、どんどん「一人歩き」な現象が心の中で起こっているものです。(他の喩えないのかい)
その自分が勝手に描いたルールを、現実世界に当てはめて実際に起こっている生の現実をちゃんとみなくなる。優先順位はマイルール、マイ妄想、マイワールド。
そっちで作ったマイルールのほうが防衛力が高めなのでそこに移住・居座ろうとする。ところが、本当は目の前に起こっている楽しい世界に身心のタッチパネル感度高めでせっしで飛び込んでドボンしたい。でもそんなことをしたら、きっと心もずらぼろになる。だから距離を置こうとする。
結果、表で働いているようでも、心はどこか距離感。引きこもり気味。そこにいながらソーシャルディスタンス。常にコメンテーター、評論家視点。
自分が願っている世界のカタチと実際とが違う事でなんだか心がチクチク痛くなる。それはおそらくは最初から身構えている小さな決め込み、決めつけがあるのかもしれない。本当は今から行こうとしているところだって行ってみれば楽しいし、新しい発見があるのに、今まで傷ついたことが引っかかっていて、これ以上ダメージを受けたくないから心が沈黙黙食状態。せっかくの楽しい給食もコロナのせいでおしゃべりなしでモグモグみたいな。だからって、誰ともしゃべらないのは寂しい、つらい、むなしい。そんなあなたを奮い立たせるのは菩提心という自分を救い、他を利益するこころです。
世界は残念ながらこちらが思い描いている状況とは毎日、毎秒、毎瞬異なる姿をして❝舞って❞います。
ですが、距離を持ってはいけません。
主人公をそこでわたしではなく、起こっていることを主体にさせてあげることなのです。
今日、料理をするときに予めイメージをしてから作ってみてください。絶対に狙った通りになりません。味もイメージしてみてください。絶対、その通りの味にならない。そこで主役の座を譲るのです。事実が主役なのだと。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました

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