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愛護動物に指定されていない動物への虐待

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動物虐待といえば愛護動物に対するそれの話題を見かけますが、それ以外の動物、例えば両生類や魚類、無脊椎動物への虐待はあまり槍玉に上げられていないように思います。
愛護動物への虐待は通報すれば加害者を捕まえることができますが、それ以外の動物への虐待はなかなか罪に問われない(なっても器物損壊程度)という事実に心が痛みます。

また、愛護動物(主に外で活動する家猫)が小動物を虐めたり、他人に迷惑をかけることに対して何も感じない人がいるということも恐ろしく思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生命が他の生命を「生命」たらしめている

すばらしい…✨
令和版の「生類憐みの令」のご提言のようですね。🐕(*´ω`)素敵…✨
そのお考えが現実的であるかどうかの見極めが大事でござる。
ある程度までにしないと終わりがないからです。
たとえば、お米。
お米の一粒に一郎二郎三郎…と名前を付けたとします。
私たちは何百万どころか障害でざっくり一億ものお米を食べるそうです。一億郎。ごめんな、三百八十八万7千六百五十一郎。🍚うまかったよ。感謝。
「お米がだめならパンを食べればいいのに💄」
パンにすればいい…?小麦も同じ命ですだ。🌾🍞
「パンが無ければケーキを食べればいいのに👠」
🍰ケーキも小麦ですだ。牛乳🍓フルーツ。
人は水道水やお酒を飲むだけで体内の菌類も殺してしまいます。彼らにも配慮してみるとどうでしょう。時間が足りません。無理です。追いつきません。自分の命も損ねます。ヨーグルト食べたらヨーグルト菌と体内の菌とでロシアVSウクライナ状態です。
「ああぁー、私の体内のかわいい微生物ちゃんがァ、水道水のカルキでぇぇぇ。ヨーグルトでぇぇ…。」
「お願い!(*´Д`)納豆に、からしを入れないで!納豆菌の効果が弱まるから!」
「キムチ納豆!?どっちが優勢?」
「ゴキブリ…ホイホイ…、ひどい。かわいそうに!」
「ダニシート!?なんですって?ジェノサイドよ!」
「バルサン?毒ガスじゃないのよ!」
「コロナウィルスにも人権をぉぉぉぉ!」
「生物兵器の開発者にも人権をぉぉぉ!」
「インフルエンザちゃんや指先のバイ菌ちゃんにも繁栄をォォォ!」
いきすぎるとこのように大変なことになります。
さて、ここまでは冗談ですが、あなたのその生命を尊ぶ姿勢こそは素晴らしい精神です。
人間は段ボール餃子やプラスチック米やタイヤのタピオカを食べてもお腹を壊し自分の生命も損ねます。
だからこそ、この世の生命が生命によって生命として存在・存続・継続させていただいているという命の支えあいの大真実に目を向ける。生命の尊さに感謝の気持ちを捧げ、人や動物が遊びで生命を傷つけるよう非道なサガ・人間性に向かわないよう高い精神性を追求するべきなのです。理想主義過ぎてエマ・ワトソンさんのような行き過ぎた菜食主義にもならず、ヴィーガンテロのような動物愛護名目の脅迫・心理誘導に騙されずバランスよく生命を頂戴することも大切だと思います。※一個人の意見です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

現行の動物愛護法は不十分なところがあると思いますが線引きが難しいですよね。
厳しすぎると悪法になりそうです。
ウイルスは生物の定義によっては非生物(生きることも死ぬこともない)と考えることもできるのである意味羨ましいです。
最近は(痛覚がないといわれてきた)魚も植物も「痛み」を感じるという研究が出ているので、何を食べるにしても残さず食べる、生物由来製品を大切に扱う、無闇に傷つけないようにするなどを守るしかないと思っています。

丹下覚元さん
冒頭に大事なことを書き忘れていました。
お返事ありがとうございます。

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