悟りと諦めの違い。
以前自身の周辺環境の事を憂いてご相談させて頂きました。
父からの性的虐待や盗撮、
塾教師にされた暴行。
それに伴うメンタルの上下の事などです。
黙する事を決め、未だ家族には言っていません。
離婚した父をずっと恨み仕返しをしようと常に何かを考えている母とは少し距離を置き、
父を赦し自分は誰も恨まず、
過去は終わっていてもう今とは関係ないから大丈夫、
仏様は見ているし良い事をして自分が良くなる事に努めればいい、
と、一時期良い方向に物事を考えられるようになりました。
ブラック企業に未だ在籍、あい変わらず園長は理解できないですが、頑張って続けています。
今年度は信頼できる先生と組む事ができ静かに保育を学んでいます。
ふいに、自身の生育環境のアレや子どもに寄り添えない気持ちを相談したくなりますが、話してはいません。
話したところで事実は変わらず、自分の保育の姿勢への正当化にもならないからです。
自分が子どもが苦手であるという情報は、保育士には不利な情報であり、誰にも理解されないとも思っています。
諦めがついた、
怒りを隠せるようになったのか、
子どもに対しての姿勢は穏やかになれましたが、
未だ、やはり子どもが苦手であり、話しているだけ、接しているだけで心身ともに痛みを感じることが毎日のようにあります。
一時期体調を崩した際
独り言が出ていたのですが、
「なんで?どうして。」「助けて。」
という、自分の今までの何かや周りに対する疑問が出ている事が多かったのですが、
最近は
「痛い痛い」とひたすら不調を訴えるものに変わりました。
いずれ生き物である限り、人は皆無事死ぬし、浄土で救われる。
と思っているのですが、
最近の自分の心情は、
恨んだところで、怒ったところで何も変わらない、静かにしていれば、人に優しく穏やかにしていれば大丈夫、と思いながら、
心身ともに不調が続き、どこもかしこも痛みがあります。
子どもが光であるとも思えず、抱きついて私を刺してくる針のように感じ、また、子供を尊く思う保護者や教育者の心情にも寄り添えません。
子供が欲しい気持ちもなく理解ができず、孤独を感じます。
欲しくないとも言えません。
絶望のような、どこにも行けず、生きている限り地獄である、と思うような事もあります。
諦めと悟りの違い、どうすれば穏やかに過ごせるか、お力添えを宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
重荷を背負って足の痛い道をゆくより荷をおろして活路を見出す
過去は終わっています。今とは関係はありませんが、そこでそれが縁となってつい今日新たに負の思いを起こし(A)そこに今日新たに負の思考を継ぎ足す(B)をすれば今日新たに(B)という負の思いの作用が生まれるのだ、ということを何度も念じてください。
仏様とは自己、あるいは全人類共通の人間のエゴとは無縁な清浄なる働きです。
お子さんが苦手という意識の本質を見抜くことです。
あなたは「子どもが苦手」と思っているけど、問題なく接していることがある。問題なく接していられる時間帯がほとんどであるはず。
何か「不都合な・このましくない・苦手な・嫌いな」シチュエーションが起こるとあなたがその時だけ、不自由に思うという事でしょう。
その本質をよーく見つめて見抜いてみるのです。」
人は誰かと接する時、どんなに苦手な相手であってもただ話しているだけ、ただ接しているだけです。
心身ともに痛みを感じることがあるのは「後から」自分の脳内で何か負の思いがsy報じた時だけのはず。それがもし毎日のようにあるなら、そこを見つめてどのような状況でそれが生じて、どうすることで継続されるのか、いつなくなるのかを見極めれば問題は終了します。
「なんで?どうして。」「助けて。」「痛い痛い。」という内なるお声はあなたの本音であり、誰も受け止めてくれない理解もしてくれていない気持ちではないでしょうか。
こどもに無条件で接することができないのは先立つ、内なる自分の苦しさを手放せないからであり、解除・荷下ろし・吐き出しを必要としているからです。
修行僧でもなぜ坐禅をするのか?なぜこんなことをするのかという気持ちが先立つ心理にあるうちは修行は始まりません。本人が納得がいって初めてものになるのです。
諦めと悟りというほどの話にせずに、穏やかに過ごせるためには、あなたのその周りの人にはとても言えない重く苦しい心情を話してみることだと思います。
私でよろしければお力になれるようであればご連絡いただければお話をお伺いして、そこから心の向かうべき先・導き先を提示させていただければと思います。
同じようなお悩みをお抱えの方もこれをご覧になられたらご連絡をいただければと思います。
世の中にはどう考えてもおかしいだろ、という事はあります。
私もそういう理不尽・不条理に対して本音でぶつかってきた人間ですのでともに活路を見出しましょう。
執着を手放す
諦めという文字には真実という意味もあるので、諦めイコール悟りと言っても良いかもしれません。
しかし、私達は簡単に諦められない。
執着・こだわりを手放せない。
執着の最たるものが、自我、自分への執着です。
自分を守りたい、自分の価値を守りたいとこだわると、悩み苦しみストレスにつながる。
あなたの場合、保育士であることへの執着を手放せれば、真実を明らめることができるのかも。
誰にでも欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩がありますが、苦・無常・無我の真理を悟れば煩悩を消せる。
また、悟っていない人でも煩悩を上手く制御できれば日常生活の悩み苦しみストレスを軽減できる。
ところで、現在、各自治体では児童虐待に対応する職員を置くことが義務化されており、教員免許や保育士など専門資格がある人は研修を受けてそのような職員の資格を取れるらしいです。
正職員ではなく臨時職員とかでもそのような仕事の従事者を募集している自治体があるかもしれません。
児童虐待から人々を救う(加害者にならないよう大人を救うことも含め)仕事に興味はないでしょうか?
質問者からのお礼
丹下 覚元(たんげ かくげん)さま
問題なく接していることがある。問題なく接していられる時間帯がほとんどであるはず。
何か「不都合な・このましくない・苦手な・嫌いな」シチュエーションが起こるとあなたがその時だけ、不自由に思うという事でしょう。
>問題なく接している、確かに問題なく接しています。
ですが、不自由に思うのは、園でも、外でも、見知らぬ家族相手でもです。
好ましくないシュチュエーションで、ではなく、子どもが笑っていようが泣いていようが、妊婦、子どもを抱いて笑う父親、
自分が何が苦手かわからず、子どもや家族がそばにいるだけで苦痛です、「先生大好き!」と言われると、逆に苦しくなります。
子どもも、子どもを愛する家族も、私には理解できないんだな、と感じてしまいました。
家族が羨ましく、また、妬ましいです。
子どもの成長を祝う親を信じられず、子どもが成長する姿を見ることも悲しいです。
保育士として良い先生だと期待を寄せられることも、つらく感じています。
今の職業から、離れるべきでしょうか。
願誉浄史さま
児童虐待支援に努める。
>前の園では積極的にセミナーに参加し、実際対応していました。
虐待を受けている児童に寄り添っているときは、私だけがこの子をわかる、私も救われている気がしましたが、「この子は大人に気がついてもらえたのになぜ私はまだ誰にも気がついてもらえないのだろう。この子が救われても過去の私は救われないままだ。」と気がついてしまい、辛くなりました。
精神がつらくなってきたのもこの辺りからで、それのあり一度休職させていただきました。
今までは他人の考えが取るようにわかっていたのに、最近では共感能力、想像力も身を守るためか減ってしまっている感じがします。
このまま自分が変わってしまう恐怖に怯えています。
ご回答、有難うございました、
穏やかに過ごせるよう、自分を見つめ直します・・・