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なって後悔

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はじめて相談させて頂きます。
今年の3月に研修医が終わり、歯科医院に就職したのですが想像以上に厳しくて、辛くて、たったの2日でもうやめたいという感情でいっぱいです。正直ならない方が幸せだったのかなとさえ思ってます。
今まで自分が勉強、練習、人間関係から逃げてきたツケだと自覚しているのですが、そうは簡単に修正できないので苦しいです。
30になろうしているので将来食べていけるかも不安でいがギリギリします。
歯科医師になったのは間違えだったのでしょうか?乗り越える自信がありません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こころの虫歯対策 迷い・痛みこそ名医への道

痛い歯をよけてながら、よく噛みしめてください。
私は横浜の総持寺で隣接する鶴見大学の歯学部の坐禅会なども関わらせていただきました。お寺の境内に「歯の塚」という謎の珍塚もありまして。歯の一本一本も供養としてうやまっているのですナ。その精神は人間は歯、一本でも痛めれば人生がぐらつく。だから、ことをなすにも慎重に。
私は先日からケガや病気が続いて、ころんであちこちあざだらけ、親指は肉芽腫、胃腸に違和感、ベロを噛んで法話もできず、今はギックリ腰、歩くのもやっと。舌無しtongue(タンゲ)です。それでも喋れんでもあるけなくても仏法は説けるものですから、あなたのスキルがあれば他の緩やかな環境であれば快適でしょう。今の現場から脱出しづらいと考えればいいだけです。抜いた方がいいのでは?きつい職場で「使われない」ことです。そんなに忙しい場でなくても歯の治療はできるでしょう。人生は我がスキルをもって人を救うことにあり。仕事をしようと思わず、救済活動と思えばよいのです。開業するにはお金もかかるでしょうが、友人の歯科医はネットを通してたまたま歯科の設備を手放したいという人から700万で買い取ってチョイ田舎に引っ越して開業しました。次のステップを見通しながらやっていくとよいのではないでしょうか。
ラーメン屋であれば、無賃金でもそのスキルを学べば開業できるようになりましょう。そのための投資、スキルアップ、経験値をつんでいるのだ、と。
タクシーの運転手さんが、いつか個人タクシーを始めるように。我々僧侶も誰もが最初は小僧です。
私はお寺のない青空寺院の住職でした。無職。無住。
今も収入が得られない寺で本寺勤めですが、あちこちころんでけがしたりで生きていけるだけでもありがたいものです。唯一困ることはパソコンが壊れまして。
入力が遅すぎて回答ができないことです。中古でレッツノート(秋葉で3万)を使っていたのですが、電源が入らなくなってしまいました。哀しい。ですがトラブルやコンナンという虫歯状態の時、それを只の痛みとせずに「ではどこへ向かってこの虫歯心👣を進めていけばオレは確かな手ごたえを得られるだろうか」ということを大事にしてみてください。職場の人間関係が苦痛ならば心のフッ素加工なり、心のエナメル質を強くするなり、カブセものをしてタフ化する。忙しいのが大変ならば静かな職場に転職する。よい治療を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼を書くのが遅れてすみませんでした。
働き始めて一ヶ月が経ち少し気持ちが落ち着いてきました。
正直まだ辛いことが多いですが、頑張ってみようという気持ちが芽生えてきました。
本当にありがとうございました!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ