才能を羨ましく思う
才能がある人がずるく思ってしまいます。
皆、同じように生まれたはずなのにどこで差がついてしまったのでしょうか?神のような絶対的な上位の存在に愛されているのか。
才能がある人を見ると尊敬もしますが羨ましくも思い、またなぜ自分には何の才能も能力も無いのかという劣等感などで涙が出そうになります。学術的に遺伝子などの要因もあるのかもしれませんがどうしてこんなに差があるのか疑問です。
自分は自分、他人は他人といった考え方もあるとは思いますが、競争社会においてこの差は無視できずなぜ同じように生まれたのに自分にはなくてその人には才能があるのか、ずるいじゃないかと妬んでしまいます。
こんな醜い自分はどうすれば良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ずるいよね〜
拝
学校では※平等を未だ教えるのかもしれないけど
本質的に世の中は平等ではないよね
※(正確には平等とは仏教用語で人を差別しない思考と行動を保つ事を指します)
なんでもできる人は
なんでもできるよね
お坊さんでも同じだよ
若い僧侶だから未熟なわけではなく
若くても達観している人は達観している
反対に年を重ねたからといって達観するわけでもない
それらの解釈は仏教的に言えば
前世での積み重ねが因果となって現れているとも言われます
当然遺伝子的なものもありましょう
けど出来る人だって「出来て当たり前」と思われる責任や苦しみがある
容姿端麗であれば虚像を背負わせられる
だから出来るから、かっこいいから苦しみが無いわけではない
醜くたってユーモアを求める人の周りには人が溢れる
「俺なんか生きてても何にもできない」
この気持ちが初心で良いんだと思うよ
そこがスタートだからね
そこで落ち込むのは違うけどね
淡々と受け入れるんだ
感情に身を任せない
赤ちゃんが歩くのを覚えるのと一緒で
淡々と毎日積み重ねるから出来るようになる
ずるくて足の短い大人は
一段跳びこして登りたがる
けど足が届かなくて絶望する
欲張らないで
今日出来ることに目を向けるがよろしい
毎日読んでれば難しいお経だって
読み仮名調べなくても自然に読めるようになるんだ
不思議だよね
でもそういうもんなんだよね
やめなければ
確実に伸び続ける
感情に溺れるなかれ
合掌
世の中は平等を求めすぎ
天肌さん、才能に悩まされておりますね。自分の進む道で悩んでいますね。ご自愛下さい。
さて、才能はあるか無いか?と言いますとほとんどの人は才能ではなく、環境と継続で培っていると思います。よく、アスリートが「この競技をするのは私の宿命だ」と言う人がいますが、あなたが生きている時に偶々その競技があるから出来たわけで、ご縁があったということですね。
最近、個性を叫ぶけど何が何でも個性や皆違って皆良いと言い過ぎだと思います。個性が大切ならどんな人も受け入れなくてはならないのに都合が悪くなると排除していると思います。
才能や能力のある人はほとんどいなく、環境に適応したものだけが才能を発揮しているように思います。そんな世の中は私は認めたくありません。
自分がされて嫌なことは他人にし
ない。自分が歩んだ人生と同じ人生を後世の人に歩ませないことが大切です。未来は変えられませんが、過去は変えられます。過去の出来事は反省次第でいくらでも未来に繋げることができるのです。未来にこだわらず、過去を振り返って観ましょう
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
上手くいくかはわかりませんが自分のできることをコツコツと地道にやって成長したいとおもいます。