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全く身に覚えがないのですが…

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

こんにちは。いつも相談に乗っていただきありがとうございます。
自分では考えつかない回答や結論に辿り着くことができたりして、とてもいつも助かっています。
相談内容なのですが、私には高校時代から続いている友人がいます。
その友人とは一時期疎遠になっていたのですが、最近同じ趣味を持っていることがわかりまた交流するようになりました。
その友人とはツイッターやLINEなどアプリでも繋がっているのですが、最近ツイッターのフォローが外されていることがわかりました。さらに鍵をかけていたのでフォロー申請をしたのですが、拒否されてしまいました。
何かしてしまったかな、と思い、LINEで謝って、反応もないから心配をしているとLINEしても既読スルーで返事をしてくれませんでした。
私は何かしてしまったのか?けれど、仲良くこの前まで電話していたり遊んでたりしていたし……本当にさっぱり心当たりがないのです。
友人は、心の病を持っているのでその影響でLINEを返さない時もあるので今回もこれかなと思っているのですが、ツイッターのフォローを外されたりして何やら様子がおかしい。
また、タイミングを見て連絡してみるべきでしょうか?それともこのまま、あちらが離れたいというなら放っておくべきでしょうか?
是非、第三者からのアドバイスをください。
お忙しいと思いますが、よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

SNSはアカウント越しのコミュニケーション

こんにちは。同業者から超絶スルー&ブロック&友達削除されている時代を先取りし過ぎた一人堕ちファーストペンギン🐧一本足りない凡下THEジョー仏と申します。断て、断つんだ課金。SNSというものは人によって活用法、使い方が異なるものでございます。私もアカウント停止を何度も食らって一つのSNSだけでも5つ持っており、それぞれ発信内容が異なります。現実社会や表メディアではなかなか真実報道がされず思っていることを本音で言えなかったりということがあるものです。ですがアカウントという「別の顔」を通して発信すればイイタイコトが言えるメリットもあるのでしょう。表メディアでは放送禁止な内容も投稿できるものです。
その方もどのような理由があるのかは存じ上げませんが、おそらく知人友人がいると発信しずらいということもあったりするのではないでしょうか?私も檀家さんとSNSでお友達になってしまい、言いたいことが言えない状況が続いていた時期もありましたのでブロックさせていただいたこともあります。相手の思っているイメージ肖像のアカウントやサブ垢と本人の意識とはまるで異なるものでございます。このhasunohaの投稿でも本人とは異なるイメージが生ずるものでございましょう。人は先入観や思い込みで生きているようなところがあるものでございます。あなたもその御友人に対してアレコレ思っておられるのも実は思い込みだったりするもんです。直接的に深くかかわりがない場合、あるいはその真逆な関係である場合SNS上では関わりたくないという人は多いと思いますだ。(´-`*)
よって、相手方がそのようにされたということはそれが相手方の意志だということでございましょう。わたくしのように同業者から超絶スルーされるレベルになってしまう前に自分で自分の安全地帯を歩まれればよいのではないでしょうか。その方もその方なりの心情、お考えがあってそうされたというだけでしょう。
直接会った時、ちゃんとご本人様にお会いした時以外は人はご本人様のいないところで勝手にあれこれ思ってしまうのですよ。
ハイ。q(´-`*)pそんなもんです。
さて!
それでは、ここでご登場いただきましょう。
後ろをご覧ください!
ご本人様の登場です!(モノマネかい)
(; ゚Д゚)!
ズラリ
(´-`*)(´-`*)(´-`*)(´-`*)(´-`*)どれよ?

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

こんにちは。ご回答ありがとうございます。なるほど、確かにそうかもしれませんね。確かにネット上の友人ではなくリアルの友達に見せて恥ずかしい投稿は私にもありますし、友人にも同じようにリアルでの友達である私には見せたくないものもあるかもしれません。考えがそこまで行き着きませんでした。ありがとうございます。
これからは適度な距離を保って、この友人ともうまく付き合っていこうと思います。本当にありがとうございました。追伸、独特な文章のノリに笑ってしまいました(笑)元気が出ました、ありがとうございます。

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