お金に執着してしまう自分が嫌い
こんにちは。タイトルの通り、お金に執着してしまう自分が嫌いです。
最近車を購入しました。
初めての新車と言うことで、最初はワクワクしていたのですが、3日も経たないうちに、買取時の価格が気になるようになってしまいました。
「傷を付けたら買取価格が下がってしまうのではないか」、と思うと、びくびくして車を乗ることが出来なくなりました。
また、自分以外の家族が運転する事も恐れてしまいます。
考えのベースには「お金への執着」が絡んでいると思うと、この考えのせいで人生の楽しみを半減させている自分が嫌いになります。
お金に捕らわれない生き方が羨ましいですが、「お金持ちになる」こともあまり現実的ではないですし、できれば「お金を意識しない生き方」が出来ればよいのに、、と思っています。
お金に執着する気持ちをどう対処すればよいか、ご指導ご鞭撻いただけると助かります。
何卒宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
妄想に捉われずに物事を正しく諦め見定める事
拝
幸せになる為にお金は大事な要素であります
しかしお金執着すると
正しい判断が出来なくなり
たちまちお金で不幸になるのも人間
それはそうと車は
高い物ですからね
仕方ない
私はその執着が嫌なので
分相応のオンボロの軽トラックしか買いません
未だに葬儀場にもそれで大きな音をひびかせながら行きます^_^
そして車の買い取り金額が気になる
それも分かります
リセールバリューというやつですね
でもよっぽどの人気車でなければ
年式だけでどんどん下がりますし
ちょっとした傷や凹みなら
言うほどの差はありません
むしろ売る時期や交渉力が車を高く売る秘訣だったりします
執着は無明から生まれます
車を売るにも
豊富な経験が問われ
初めての車を高く買ってもらえるには
それなりに勉強や経験が必要
そのあたりを勉強して明るくなれば
やたらに気を使わずに済みます
さてもう一度
お金に求める本質をもう一度考えてみましょう
人は幸せの為にお金を稼ぎ
その目的を達成する為に使います
どうも今のあなたはお金の力を過大評価しているようです
故に車の価値もあなたの中では過大評価されているようです
新車が中古車になった時点でその金額は大きく下がりますから
新車を買った時点で売ることを考えれば金銭的には損する事は間違いありません
それ以上に車で得られる自由や
愛車を可愛がる喜びを味わうことに
集中できていないようです
大事なのは過去の金銭でも
未来の車の売値でもありません
現在あなたが使ったお金で買った車で自身や
家族の幸せを手に入れる事です
車も人も歳とれば壊れる
完全に見えて
色んなトラブルを抱えてる事だってある
そう考えられないならば
自分や家族が車をちょっと擦っただけで
責めてしまう事でしょう
これではますます無明は深くなります
大事にすべきはあなたが使ったお金で楽になる事、楽しくなる事、目的の達成に近づく事
それと先取り不安はパニックを起こし
正しく物事を見れなくなりますので早々にやめるよう心がけましょう
形ある物いつかは崩れる
世は無常
諦めって本当はこういう時に使う仏様の言葉なのでした
はぁーってため息ついて考えるの終了すると良いですよ🙏
合掌
あの世に金は持ってけない🚙 善導アクセル
お金はお金を使ってどう優れた生活ができるかどうかだと思いますダ。(´-`*)
お金は持つものではなく笑顔になれるために用いるもの。
わたしも子供が大学に行けるようにとお金をためていますが、ケチケチしすぎると何のための貯金何だかわからなくなることがあります。よってこのゴールデンウィークは少々値段が高くても一読ぐらい家族で旅行サいくべと思って、少々奮発しました。
結果、そのお金は大きな学びとなり、大きな思い出となり、大きな出費ともなりましたが、大きな価値のあるものでもあり、人間性を豊かにするものでもありました。
人生、一生学びです。
私の高校時代の同級生が新車を買いましてナ。
当時ファミレスでみんなでご飯食べようということになったのですが、駐車場でぶつけてしまいまして。彼はファミレスでもずっと下を向いたまま真っ白な灰に燃え尽きてしまっておりました。禅宗の昭和の名僧の一人沢木興道師の逸話にこんな話があります。
檀信徒さんが家を新築してトイレもきれいにしたそうで。
ぜひとも開眼供養としてその新しいトイレで用を足してもらいたいという依頼があったそうですわいの。頼まれるままにそのトイレで用を足したそうです。私も新車をぶつけた時は「開眼じゃ」と思うようにしております。ぶつけるのを恐れて心に無駄な心理的な負担があるよりはジープにでも乗っているつもりで豪快な気持ちで運転した方が、心の減りが少ないものです。つまり本当は何も減らないということ。自分が損した損したぶつけたぶつけたと思えばあなたがそういうことを思うがゆえに心をすり減らすような気持ちになるということ。
お金だってそうでしょう。人生にお金はいくら必要ですか。いくらあれば満足ですか?昨日はいくら使ったのですか?金を使うたんびに金の事を案ずる心理を金に使われているというのでしょう。御金を大事にすることは大切です。ですが、学問にしても、食事にしても、宗教にしても、車にしても「どこへ導かんと」するのか。アンタの心をすり減らすように導くようなモノであればそんなもんに使われてはイカンのでしょう。
世の中には宗教なのに金、政治、信者の獲得、売国に力を注ぐカルトもある。一体何のための宗教か。食品業者なのに子供に食わせたらアレルギーになるものを売りさばく業者もある。何のためにお命様を殺しておるのか。
金も車も活かすのですよ。活路を走り法輪を転ず。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
お金に求める本質をもう一度考えたいと思います。
>>人は幸せの為にお金を稼ぎ
>>その目的を達成する為に使います
仰る通りでございます。
金に執着している自分に気付きました。
更にお金は墓まで持っていけないことを忘れていました。
今の自分が幸せになることに費やしたいと思います。