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不幸続きの人生です。

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子供の頃から不幸続きです。
父親が浮気をしていて、浮気相手を家に連れてきて、一緒にごはんをたべさせられたり、父親が暴力をふるったり、兄が引きこもりに近くなり、兄からも「えてこう」と呼ばれ、暴力を振るわれてました。小学校、中学校といじめにあいばい菌扱いされてました。高校では不登校になりました。
卒業後、大好きだった彼は私の親友と出来ちゃった結婚をしました。母は病気になり、私の散歩中に私の不注意で怪我をして入院しました。でも誤診でなくなりました。結婚した夫はある日突然行方不明になりました。そして離婚を請求されています。両親とも亡くなっていて、行くところもありません。夫の親戚からは厄介者扱いされています。娘もいじめにあい何度も学校と話し合い もう疲れました。徳を積めるようにがんばっていましたが、精神が病み休職にやっと復職できると思ったら、娘のコロナの感染 私は濃厚接触者なのでまた仕事を休まなくてはならない。 
持病もあり、正直 働く事もつらい
その上心臓の疾患も見つかりました。

私は幸せになれますか?疲れてしまいました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の完全デトックス 脱落身心 諸行無常 常に浄化されっぱなし

私は生まれた時に体が弱くこの子はダメだろうと親から言われたそうです。👼
幼稚園では虚弱体質でいじめられっ子でやせっぽちであだ名は💀ガイコツ。今は反動でチョーデブ、ガチデブ、只管デブ。小学生ではお寺の子お寺の子とバカにされ、坊主頭をからかわれ女子たちがさわりに来るのでした。🍢つーんつん!個性を許さない学校ではサイコ教師からも標的とされ、いじられること多数。高校では好きな女子にフラれて付き合った女子は浮気性で大学時代はお酒とギターと天下一品だけが友達。⚽
修行道場では先輩僧から目をつけられていじめられること数知れず、こいつらホントに坊主かよと思う連中ばかりで業界病み数知れず。修行道場に無駄に身を投じて10年。業界内部の闇まで見通せる力を持ってしまい、いじめをする先輩僧侶ら数名を公開処刑して嫌気がさしてアホらしくてお山をおりました。下りてから修行道場で身に着けた感覚センサーが強すぎて世の中の矛盾に黙っていることができずSNSでも爆投稿でお坊さんのお友達も沢山いくなりました💕私は幸せになれますか?日々疲れ丹下です。私も助けて下さい。
でも、大丈夫💕
どんな不幸が続こうとも心は自動洗浄機能付きの鏡のようなモノ。
それが人間の心の本来性です。
人は幸せになりたければホントに幸せを求めなければ得られません。
よかったら、うちの寺に電話するか修行に来るとよいでしょう。
ですが、その前にあなたの場合、自分の心の中で最前列に鎮座させているある意識を外す必要があります。どんな有り難い説法でも自分の「わたくし意識」が優先順位が高い状態ですと人の話も聞かない。聞いても誤解する。聞いても違う解釈をするんだもの。みつを
心というものは、本当に自分のしゃしゃり出るエゴエゴマインドを完全に黙らせると元々の自浄作用、浄化作用で毎秒毎秒リフレッシュされっぱなしの状態に気づく。それを成仏と言います。特殊な悟り開いたりミイラになるわけじゃァありません。むしろ悟りとは、この自己の本来性を自覚することなのです。
多くの人が悟りを超能力めいたものにまつり上げていますが、そんな人誰も見たことないでしょう。だったら、手の届く範囲の自分にも実現可能な仏の教えを学ぶべきです。私はここでは具体的な方法は書いたことはありません。パクる人が多いからです。求める人にだけ教えてます。関心があれば仏道を求めてみてください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。 色々ありすぎて、今少し考え方がだめなのかもしれないです。 また お礼させていただきます。一度 お寺におまいりさせていただきたいなって思いました。

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