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生まれてこない方が良かった

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有り難し有り難し 14

自分には能力、容姿が良いわけではなく何をするにもうまく行かず人生の選択を全て間違えたと思っています。
不安などで心が落ち着かず心から生まれてきたくなかったと感じ体調も優れません。また、私には生まれつき障害を持った双子の兄がいるのですが、もし自分がいなければ(誕生しようとしなければ)健常者として生活できたのに出来損ないの自分がいなければこんな事になっていなかったのにと後悔しています。誰の役に立つわけでもなくなぜ生きているのかと自問自答を繰り返してます。この様な劣等感があるため他人や社会のせいだと考えてしまい、「無敵の人」と言われる人が起こすような殺人事件を自分も起こしてしまうのではないかと懸念してしいます。自分の能力不足を他人のせいにしていると言われればその通りなのですが、このように惨めで醜い私は何らかの被害者なのか?生まれた代償を払っているだけなのか?それともただ自然の摂理に従い生まれてきただけなのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真の万人ウケを求める 自身の万人ウケSOUND 法悦

楽器がそこにあるとします。
あなたはその楽器を自由自在に弾きこなせる人です。
(´-`*)「何か弾いてくれないか?」
あなたはある人から頼まれます。
あなたは演奏します。♪
(´-`*)「そういうのじゃないのがいいナ…。」
彼は別の雰囲気の曲を弾いてほしいとたのみます。
あなたは自分が「これだ」という曲を演奏します。
🎻♪
「どうですか?」
(´-`*)「うん…。あなたにとっては良いと思うのね。でも、気を悪くしないでね。まだまだな気がする。」
「まだまだ?」
(´-`*)「自分に正直になるといい。ホントはアナタ、もっと聴かせられるはずだ。❝奏でられる❞はずだ。いい音を奏でたらいい。もっと心地よいサウンドを弾きなよ。自分に正直に。万人ウケするような曲を奏でてほしい。」と頼まれます。
「万人にウケる曲?
…POPか?クラシックか?ロックか?」
あなたは迷います。
「どんな曲?」
「曲でなくてもいいの。」
「曲でなくてもいい…?」
「いい音を奏でてごらん。」
「…いい音?どんな?」
彼は貴方に問います。
「自分に聞きなよ。聞く。聴く。聞くことを忘れてるよ。自分の音。
君が知ってるはず。君が今まで奏でていた音は…、うーん、私はあんまり…なんていうか…うれしくない。」
「うれしくない?どうして?」
彼は答えます。
「あなたもそうでしょう?今それを弾いていた時、幸せそうじゃなかったよ?どんな顔してたか自分でわかる?」
「…そう…ですか?」
「顔も目も表は心の鏡だよ。表情を見ればわかる。元気ない顔してるよ。」
「…僕は自分ではイイと思ったのだけれど。」
「自分ではそう思うもんだよ。でも正直になってごらん。もっと万人ウケを追求した方がいい。」
「…万人ウケ…。うーん、万人ウケなチャラチャラしたような曲は…好きじゃないよ。自分はそういう中に入れないから。」
「そういう万人ウケのことを言ってない。」
「じゃぁどんな万人受け?」
「人類全体。自分に素直に聞いてごらん。やさぐれていないで。君は音を奏でられる。いい音を知っているはずだ。」
万人ウケのサウンドとは何か…?
ここでいう奏でるとは心の発音。発声。発動。
彼はあなた自身。本心。自己の仏。アナタに必要なことは、自分が心を動かすときに自分の心が心地よくなるように奏でる事です。
過去がどうだったとかよりも、今、今の真新しい響きを…今。♪

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
過去ばかりにとらわれず、より良い未来のために頑張ります。

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