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お坊さんってどんな人?

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有り難し有り難し 12

私が思うお坊さん像は、厳しい修行をして葬式等で活躍する、お話が上手でいろんな相談に乗ってくれる頼れる方です。

最近、自分の身に起きたことや、友人から高額なお布施を請求された、あそこの坊さんは酒飲みで遊び人だからやめた方がいい等といった話をよく聞くようになり、お坊さんへの不信感を抱くようになりました。
また、先日妻の叔父が亡くなった際に枕経からお願いしたら、最近は通夜と一緒に努めることが多いからそうしてくださいと言われました。そういうものなのかと納得しましたが、あろうことに枕経を断られた日にジムに入っていくその坊さんの姿を見かけました。妻の親族は「あの人はそういう坊さんやでな~」と苦笑いしてましたが、私には信じられないことでした。

SNSで発信をしているお坊さんも多く、生活が垣間見れる方もいたりいい意味でいろんなお坊さんがいるのだなと感じています。だからこそ、自分が思っているお坊さん像と違うとお坊さんはどんな人なんだろうとより一層思うようになりました。

大変な修行をされてきた方々ばかりだとは思いますが、自分のお寺に戻ってきたら何をしてもよいのでしょうか。
戒律のお話もお聞きしたことがありますが、守らなくてもよいのでしょうか。
一体お坊さんとはなんなのでしょうか。
お坊さんが大切にされていることは何なのでしょうか。

わかりにくい文章で申し訳ございません。
ご教授お願い致します。

2022年6月14日 11:44

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

❍❍とはこうあるべきだと正義の剣で人を斬らず貴方が立派になる

さぞかしそのお坊さん限定で嫌な思いをされたのでしょうね。
ですが、そのお坊さん限定の話にしてもらえないでしょうか?
全国にお坊さんは何人いるでしょうか?全員がそれぞれその人と同じでしょうか?私はその人じゃァありませんので混同しないで下さい。
まず、先にお断り申し上げておきます。
「弁護士ってどんな人ですか?」
「医者ってどんな人ですか?」
「占い師ってどんな人ですか?」
主語が大きすぎますよ。言わんとすることはわかるのですが、そういう論法は我々としては正直困った質問形式です。
だって弁護士にも医者にも占い師にも教師にも坊主にもアタリハズレはありますし、あなた個人との相性の合う合わないだってあるでしょ?僧侶に限らずあらゆる職業にいろんな人がいますでしょ?
あなたやあなたの職場のスタッフはみんな聖人君子ですか?否。
あなたの小学校時代のお友達や生徒さんってどんな人ですか?
いじめっ子もいたでしょうし、いい子もいたでしょう。
「お坊さんがどうか?」ではなく、その人が。その人限定でお話しましょうよ。
あるいはあなたは!あなたがどうか?あなたがどうかで話をしましょう。
私はローマ法王でも、どこぞの宗派の管長さんであっても、ダライ・ラマであっても肩書きはどうでもいいと思っております。
宗教者なら「戦争が起こらないように祈りましょう」というより、戦争止めてください、と思います。ですが、人にそれを願うのってどうですか?止められますか?ウクライナ・ロシア。止められないでしょう。
私はそれを「他人に正義のヒーローを求めて自分は何もしない症候群」と呼んでおります。わかりやすく言うと「アンパンマンだけ正義の味方で俺たち名も無き隅っこキャラ症候群」。私もあなたと同じような心理にあった時がありました。
今の仏教界は…ブツブツ、このままじゃ、ブツブツ…。
「じゃ、アンタがやりなさいよ。」
「…!( ゚Д゚)」
それだけでした。笑
あなたのその主語のデカい極端な論理で一生懸命やっているお坊さんもその坊主と同じだと誤認して同様に扱って僧侶たちの全体の信用を落とすようなことをするのって正義だと思いますか?世間で頑張ってくれているお坊さんよりも我々は立派な人間性ですか?
私は違うと思いますよ?
ちゃんとやって下さっている人もいるのですから、一緒にしてけちょんけちょんにしないでくださいね。精進あるのみ。

2022年6月14日 13:47
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
ご回答ありがとうございます。
確かにおっしゃる通り主語が大きすぎたと思います。
hasunohaにみえるお坊さん方をはじめ、しっかりとしたお坊さんがみえるのはわかっているつもりです。精進します。
ありがとうございました。

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