こんな自分が嫌いです
初めて質問させていただきます。 二年ほど前(小6の時)、とあるゲームをやっていてふと、カッとなり、失礼な言葉を書き込んでしまいました。その時はスカッとしましたが、そのあとすぐ、システムに通報されてからやっと、大変なことをしてしまったと感じ、愚かなことに後自分はそのゲームをアインストールしてしまいました。しかし、すぐ謝らなければと思いなおして再び、インストールしたのですが、一度消してしまったせいで、会話や録画のデータがすべて消えてしまい相手がわからなくなってしまいました。 それでもその時は、相手が何も言ってこないしこれからは気を付ければ大丈夫か、ということを考えてしまいそのことを忘れてしまいました。 その後、今から半年前、僕が信頼していた同性の部活の先輩から、呼び出され、二回、性的な接触をされました。一回目は我慢したけれど、二回目は流石に怖くてメンタルが参ってしまい、それから軽い人間不信になりました。特に、信頼している男友達ともトイレに行けなくなってしまいました。 そして二日ほど前、今度は別の部活の先輩から、僕からするととても傷つく言葉をかけられました。 そして今日にいたります。 そのバチが今、当たっているのでしょうか? 二年前から今までの間でいろいろなことを経験して、僕がしたことは到底許されないことだとわかりました。 僕がしてしまった罪は消えません。けれど、せめて罪滅ぼしをしたいです。 とてもわがままな願いですが、アドバイスを頂けないでしょうか。 最後までお読みいただきありがとうございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
失敗しながら人は「善」に気づいていくもの。
拝読させていただきました。
ここにこうして懺悔として自身が犯した罪から報告することは勇気がいることです。
ほとんどの人は、尻込みしながら自身の悪業を蓄積してしまっているものです。
「善と悪」
この2つは目に見えるものではありません。"こころ"という心理状態から生じているものであり、大変見難いものが心です。しかし、善と悪の行いによりすべては因果応報となっているのは事実です。
・因果の法則
原因(因)+結果(果)=善と悪にあらわれます。
※物理的現象としてあらわれることと、心理的現象としてあらわれることは紙一重です。
※自身の行い(業)
①身体の行い(手足すべて)
②口での行い(発言など)
③意(こころの行い)
この三つの行いにより、すべての現象は「物理的、心理的」に応報として訪れます。
これは「善」も「悪」も同一として。
これを仏教では『自因自果』と称します。
1、善因善果
2、悪因悪果
に二分されます。
少し説明しましたが、「部活の先輩から性的・・・」は、ゲームのことからの報いとして起こったことと不安になっていると書いておりました。
ゲームのことが原因で、性的嫌がらせになったのでなく、朝顔の音さんの容姿に過去の原因が他人からは入る隙があるように見えたかも知れません。
例えば)
その時は悪いことをしていないのに、以前に悪いことをして、警察を見ると目を逸らすように、「何かを悟られているのかな?以前に悪いことをしたことで捜査で見つめてるのかな?」など、過去に犯した自身が悪と思うことは、不安から表情や動きによって現れていきます。
隙がある=油断が先輩から、コイツは入る隙がある。少しならイタズラしても黙ってそうだな。と、何かを朝顔の音さんの容姿にあらわれていたかも知れないことが原因と少し感じます。
これからは過去に起きたことは、過ぎ去り、取り戻せなく、戻れないのです。
人により、悪の違いも異なります。
人間の根幹には仏心(善)が必ずあります。
これからの行いを善に赴いていけば、自然の心身が清浄されていき、悪業(過去の苦い行い)は消え去っていきます。
未来は今です。今は今です。
明日からでなく、今から善の行い(心も身体も発言も)をしていくことで、ゆっくりと良き方向へと心が形成されていきます。
合掌
質問者からのお礼
法源様、とてもお早い回答ありがとうございます。 「未来は今、今は今」そうでした。過去は戻ってこないし、変えられないですね。 つまずいた石ばっか眺めて歩いているとまたつまずいてしまうかもしれません。 しっかりと前を向いて歩もうと思います。 本当にありがとうございます。