つらいです
初めまして。
心がモヤモヤした状態でつらいです。気にしなくて良いことまで気にしてしまいます。もっと他人に影響されずに、自分の大切にしたい人たちのために生きていきたいです。
最近、時々数人で集まっていた友達が自分とあと他にも誰か抜いたかたちで、会ったのを知りショックを受けました。
またみんなで集まりたいねと話をしていたので、集まる時には声をかけてもらえると思っていたので尚更ショックでした。
今回のことで、何か事情があってそのメンバーになったとも考えられるのですが、私はその人にとって大切な人ではないんだ、と思ってしまいました。友人は割といるのですが、みんなに好かれていたいと思ってしまいます。
今回は上記のことでつらくなってしまいましたが、気持ちがその時その時で気になるものにとらわれてしまい、いつも心静かに過ごすことができません。ずっとこんな自分ではダメだと思ってしまいます。他人と自分との線引きがうまくできていないのかもしれません。しっかりとした人間になりたいです。どのような気持ちや考え、心構えを持って毎日生きていったら、さまざまなことに気持ちが左右されるのを最小限に抑えられるでしょうか。また、自分らしく生きていけますでしょうか。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分らしい花を咲かせてやりましょう。皆、同じ思いです。
拝読させていただきました。
『善』として、とらえるなら。
ひと言で申すと「多情仏心」です。
いわゆる、ゆみさん自身が他を気遣える利他の心をもち、放っておけない気質でもあります。
『悪』として、とらえるなら。
執着が強いという風になります。
『中性的』で、とらえるなら。
「当意即妙」という機転がよいという風になります。
どれも、ゆみさんであります。
釈迦はこのように説きます。
「他人の過失を見るなかれ、他人のしたこと、しなかったことを見るな。自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。」
結論から述べますと、相手(他人)に期待している欲が強いことになり、期待しない生き方を心掛けてることが、ゆみさん自身が変われる薬(処方)となります。「内股膏薬」という、どっちつかずの人間性であると他人から見られることがあります。
「自分ではそんなつもりではない」と思う気持ちがあるならば、それは相手に期待している自分があるととらえることとなります。
人は誰もが執着とどこかで戦っています。
世の中の人々は、人生で誰と一番会話をしているのを探究すると、自分自身なのです。その自分自身との会話というものは、大半は想いであり、執着という苦の機会をつくらないために判断、決断しながら工夫の会話を自身としていることが大半なものです。
仏教では、妄執という妄想はしてはいけないと説きます。想像はいいのです。妄執とは字の如く「執」が入ります。これは、相手や財物を含め、他に執着していることは自分自身の“こだわり”と捉えるのです。
自身に「囚われている」ことになるのです。
有限なる私たちの寿命には、今日という一日は二度とない一日です。取り戻せない今日と明日にはなってきます。限られた寿命を他人を意識しながら生きる気持ちも分かります。しかし、人生の主役は自分自身です。良くも悪くもです。
小さくてもいい、自分らしい生き方をゆっくりと探していきましょう。迷いながら人は人生に気づき、自分らしく生きる道が見えてくるものです。苦悩はとても苦く嫌なものです。しかしながら、悩みの種があるからこそ自身をどのようにすれば良いのかと宿題に対し、答えを見出せていくものです。悩みは無駄ではないということを伝えておきます。
合掌
質問者からのお礼
ご回答をいただきありがとうございます。自分が感じること、思うこと、全てが自分自身であると気づくことができました。そして、このつらさは他人に期待している執着からくるものだと気づくことができました。
いただいた回答は宝物で、何度も読み返しさせていただいています。少しずつ執着から離れ、自分が人生の主役として生きていけるようにしたいと思いました。少しずつですが頑張っていきたいと思います。つらい気持ちにも寄り添っていただき嬉しかったです。ご回答いただき本当にありがとうがざいました。感謝いたします。