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坐禅と好きな気持ち

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昨年の9月から月に1、2回程、禅寺の坐禅会に通っています。初めは、自分探しというか、真実な私に出逢いたいというテーマで参禅していたのですが・・・。

その寺の住職に恋してしまったのでしょうか(私の片思いです)。煩悩は自分の力でなんとかしてはいけない、血で血を洗う様なもので、掴んだものは放下しなさいと住職は言われるのですが、その様にしても、禅会で住職が視野に入ってくると、せっかく忘れていた「好き」という気持ちが湧き起こり困ってしまいます。

迷いの炎が燃え盛っているそのままが、悟りの大禅定であるとも、住職は言われますが・・・・。坐禅していると余計に、切なくなるというか、どうしてこんな想いに囚われるのかと不思議に感じます。

では、好きという想いで三昧に入れということなのでしょうか。

今では、坐禅よりも、住職を一目見たい、声を聴きたい、側にいたいという想いで一杯になっています・・・・不謹慎というか、情けなくも感じています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

最終的に求めているものは安心(あんじん)でしょう

人間が恋をして子供を生んで最終的に到達するべき境地は安心です。
人間が坐禅をして最終的に到達するべき境地は安心です。
ですが恋は人を巻き込みます。
相手にも意思があり、生き方があります。それは、あなたとは無関係です。
いずれ恋しい相手であっても結婚して子供ができ、子育てに追われれば、その男性どころではなくなります。男性にとっては一時的にあなたから求められているだけ、そいう図式です。
相手を本当に思うのであればそっとしておいてあげることが一番の愛でしょう。
何故ならその人は、多くの人に人間が最終的に到達するべき❝安心❞(あんじん)へ導いてくれている人だからです。
あなたが望んでいる❝安心❞と禅で求めている❝安心❞と、そこに来ている人たちの求める❝安心❞にズレはありませんか。
恋にも愛にも相手を巻き込む責任があります。
仏道は、自分を生きる道です。何度か読み直してカミカミしてみてください。
❝わたしは なにを もとめるべき か❞

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有り難し
おきもち


丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の法話  自己を明らかにするために絶対に必要なこと 「非思量」 ...
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質問者からのお礼

丹下覚元様

回答ありがとうございました。
もともと、自分の恋を成就させたいという想いは毛頭ございませんし、私個人の秘め事です。
勿論、住職とは無関係です。

私自身、既にキリスト道に平安があるので、仏道に安心は求めてはおりません。
ただ仏教とキリスト教との接点は模索しています。

それから、夫はEDなので、性交渉はおろか、私との間に子どもは出来ません。
私も、そんな夫に対して不満もありません。
欲というものは何とかなるものですが、ぽっと湧いてくる感情には、
私も戸惑ってしまいます。
・・・・ただの恋心なんで、ぽっと湧いてきた様に、覚めるのかもしれません。

そんな恋心というものも、坐禅で何とかなるのかなぁと考えた次第です。
坐禅の度に、逆走しているような気もしたので・・・・。

住職は、仰せの通り、立派な方で尊敬しております。側には近づけませんね。

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アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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