hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

坐禅と好きな気持ち

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

昨年の9月から月に1、2回程、禅寺の坐禅会に通っています。初めは、自分探しというか、真実な私に出逢いたいというテーマで参禅していたのですが・・・。

その寺の住職に恋してしまったのでしょうか(私の片思いです)。煩悩は自分の力でなんとかしてはいけない、血で血を洗う様なもので、掴んだものは放下しなさいと住職は言われるのですが、その様にしても、禅会で住職が視野に入ってくると、せっかく忘れていた「好き」という気持ちが湧き起こり困ってしまいます。

迷いの炎が燃え盛っているそのままが、悟りの大禅定であるとも、住職は言われますが・・・・。坐禅していると余計に、切なくなるというか、どうしてこんな想いに囚われるのかと不思議に感じます。

では、好きという想いで三昧に入れということなのでしょうか。

今では、坐禅よりも、住職を一目見たい、声を聴きたい、側にいたいという想いで一杯になっています・・・・不謹慎というか、情けなくも感じています。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

最終的に求めているものは安心(あんじん)でしょう

人間が恋をして子供を生んで最終的に到達するべき境地は安心です。
人間が坐禅をして最終的に到達するべき境地は安心です。
ですが恋は人を巻き込みます。
相手にも意思があり、生き方があります。それは、あなたとは無関係です。
いずれ恋しい相手であっても結婚して子供ができ、子育てに追われれば、その男性どころではなくなります。男性にとっては一時的にあなたから求められているだけ、そいう図式です。
相手を本当に思うのであればそっとしておいてあげることが一番の愛でしょう。
何故ならその人は、多くの人に人間が最終的に到達するべき❝安心❞(あんじん)へ導いてくれている人だからです。
あなたが望んでいる❝安心❞と禅で求めている❝安心❞と、そこに来ている人たちの求める❝安心❞にズレはありませんか。
恋にも愛にも相手を巻き込む責任があります。
仏道は、自分を生きる道です。何度か読み直してカミカミしてみてください。
❝わたしは なにを もとめるべき か❞

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様

回答ありがとうございました。
もともと、自分の恋を成就させたいという想いは毛頭ございませんし、私個人の秘め事です。
勿論、住職とは無関係です。

私自身、既にキリスト道に平安があるので、仏道に安心は求めてはおりません。
ただ仏教とキリスト教との接点は模索しています。

それから、夫はEDなので、性交渉はおろか、私との間に子どもは出来ません。
私も、そんな夫に対して不満もありません。
欲というものは何とかなるものですが、ぽっと湧いてくる感情には、
私も戸惑ってしまいます。
・・・・ただの恋心なんで、ぽっと湧いてきた様に、覚めるのかもしれません。

そんな恋心というものも、坐禅で何とかなるのかなぁと考えた次第です。
坐禅の度に、逆走しているような気もしたので・・・・。

住職は、仰せの通り、立派な方で尊敬しております。側には近づけませんね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ