人を傷つけた自分は幸せになってもいいのか
汚い心を持つ私は綺麗な心を持つ人と一緒にいてもいいのかという悩みがあります。
以下に経緯を述べます。
私は高校生まで真面目に生きてきました。
人々の期待を裏切らぬよう、いい人であれるよう、本来の自分を偽り生きていました。しかし、高校生活を経て私は「真面目は損をする」という事を学び、大学では自分勝手に生きようと思い大学生活を送っていました。
元々、かなりの寂しがり屋で恋愛体質な自分は、大学生になってからは様々な人に恋とも呼べない恋愛をしてきました。しかし、その恋愛の中で自分の寂しさを無くすために、たやすく人を傷つけてしまうことがありました。
好きになってもらうために演じたり、己の性の欲望を押し付けていました。
大学3年になり、コロナが流行し、外に出なくなってから自分を見つめなおし、このままでは幸せになれないと考え、自分を律し、綺麗に人を好きになろうとしました。
そのためには綺麗に好きになれる人に出会わなくてはならないと考え多くの人に出会いました。そしていまの彼女に行き着きました。
私の彼女はとても優しく、綺麗な心を持っています。
しかし付き合った当初の私は就活では失敗を繰り返していましたが、年下の彼女にこんな姿は見せられないと、不安に飲まれていました。そして、なんの言い訳にもならないのですが、付き合って一ヶ月の時、以前好意を寄せていた女性と会い、自分の心の弱さに負け、キスをしてしまいました。人生最大の後悔です。
それがなぜ後悔かというと、
彼女と過ごす日々はとても幸せでした。
彼女がくれた優しさは私にとってどれもが初めてで、こんなにも優しさに溢れる女性がいるのかと驚きでした。
彼女の優しさに惹かれ、幸せな毎日を過ごしていました。
しかし、ふとこれまでの自分の行いが恥ずべきことであると学びました。
それと同時にこんなにも汚い私が彼女といていいのか、不安が募りました。汚い私を隠していることに罪悪感を覚え、好きだと言われると本当は自分は汚い人間なのだと思えて、心から嬉しく思えないことが現状です。
長々と書き綴りました。
全ては自業自得であるということは分かっています。
ですが、後悔と感謝の気持ちを持って私は彼女だけを見て生きてきました。これからも共に生きていきたいと思っています。
未熟な心を持つ私ですが何卒お言葉を頂けると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
後悔は、成長・進化の証し
仏教では、「私」という概念は幻だと説きます。
細胞は新陳代謝で入れ替わり、心は瞬間ごとに浮かんで消えて変化していく。
ですから、過去のあなたと今のあなたは、実は別人なのです。
ただ、記憶データを相続しているから同一人物だと錯覚しているだけ。
たとえば、高校野球部のチームが不祥事で出場停止になっても、3年後には生徒は入れ替わっており、チーム名は同じでも違うメンバー。
その場合、卒業した先輩の罪は関係ないでしょう。
ただ、過去の教訓を活かして成長・進化することは素晴らしい。
あなたは、成長・進化したからこそ後悔や罪悪感に気付けた。
過去は過ぎ去りもう無い。
今、幸せになることを遠慮する必要は無いと思います。
質問者からのお礼
ご回答頂きありがとうございます。
野球チームの一例、大変腑に落ちました。
過去の自分が苦しい存在から教訓という形に変わっていたのですね。
教訓であるならば忘れず、より一層今の彼女に感謝の気持ちを持って生きていこうと思います。
本当に救われました。ありがとうございました。