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禅の救いとは何か

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有り難し有り難し 31

 こんにちは、初めまして
僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。
 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。

 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。
 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません
 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます
長文失礼しました

2022年1月25日 1:02

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死ぬことが怖く無くなることが、悟りの救い。

人はみないつかは亡くなってしまう。自分自身もいつかは必ず亡くなってしまう。考えると怖ろしいですね。

病気になることも怖ろしい。老いてしまうことも怖ろしい。愛する人といつか別れることも怖ろしい、、、、
考えはじめると、怖ろしいことばかりです。

人間は、つい、現実に起こることを受け入れたくなくて、認めたくなくて、何とかならないかと苦しみます。
現実と違えば違うほど、思えば思うほど苦しむことになってしまいます。

これが、現実を心から受けいれることができるようになること。つまり、現実を現実としてありのままに受け止め、恐れも恐怖も不安も感じないような、心が澄み切った状態になることが「悟り」といえると思います。

「悟り」は、なろうと思っても、簡単になれるものではなく、心がつい現実と離れて苦しみはじめてしまうことに対して、粘り強く働きかけていく必要があります。そのために、坐禅などを行って、日々の行いからその心のあり方に変化を求めていくことになります。

ご参考になりましたら幸いです。

2022年1月25日 10:58
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1971年生。岐阜大学教育学部卒業。医療法人に就職し、医療事務、経理、総務...
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「悟り」と「救い」

にゃむちゃんさま

基本的に仏教においては、「自灯明 法灯明」として、「悟り」へ向けては、自分自身の「行い」、つまり、「業」(のありよう)と、その「業」を清らかに調えていくための「法」、つまり、「仏法」が重要なものとなります。

そして、「救い」とは、如来や菩薩等、他の誰かが貴方を救ってくれるというものではなく、自分自身が自分自身を救うのであります。つまり、自らの「業」のありよういかんということであります。業を清らかに調えていくことが自分を救うことになっていくのであります。

禅の教えも、業を清らかに調えていくことに資すれば、それで「救い」というものとなります。

業を清らかに調えていけば、これ以上悪い輪廻をめぐることはなくなって参ります。

死(今の肉体の崩壊)は当然に訪れるもので避けようがありませんが、輪廻を司る微細な意識と業は次の生へと向けて作用していくものとなります。

その意識と業の状態が何よりも重要となります。その意識と業を清らかに調えていくことを今生でも着実に進めていければ、今よりも悪い状態にはならない(もちろん、浄土へと往生できる可能性だってあります)、そして、更に清らかな流れ、仏道に乗れていければ、その先で「悟り」へと至れることになるのだと確信できれば、少しは不安も和らぐのではないだろうかと存じます。

浄土へと往生するためには、例えば、阿弥陀如来様の極楽浄土であれば、阿弥陀経に「善根少ない者は極楽浄土に往生できない」とありますように、自らの業を清らかに調えて(善根を積んで)、阿弥陀如来様との仏縁を強くし、往生できるようにしていくことが必要となります。

ちなみに、禅宗における臨済宗での葬儀の引導先は、阿弥陀如来様の極楽浄土になります。

合掌

2022年1月25日 14:57
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三休さん
二休みも三休みもしてしまう怠け者。三休です。 最新の仏教論考はこちら...
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初期仏教的には

「悟り」が最高の目的で、「浄土」というか天界への往生は、悟れなかった場合の転生先として良い場所に行こうという「救済」措置です。
 東アジアに伝わった漢文の仏教では、中国でも朝鮮でも禅と浄土を一緒にやっているようです。悟れるように頑張る、だめでも良いところに往生して、次こそ、という本命と滑り止め?の感覚でしょう。そちらの方が本来の仏教に近いのですが、日本で宗派に分かれると、それぞれ悟りだけ、浄土だけを強調しすぎて、あなたが悩むようにどちらかなの?という感じになってしまいました。
 完全に満足したら悟りで、死にます。生まれ変わりません。消えます。
 善行為、功徳が多い人は、それでもまだもっととかもう一度という気持ちがありそれは煩悩なので、浄土とか良いところに生まれ変わるでしょう。同じレベルに生まれ変わると、また会うこともできます。
 悪行為、悪業が多い人は、いろいろ後悔したり怒ったりしながら死んで、ちょっと悪いところに生まれ変わるでしょう。そちらにも同じ心のレベルで先に誰か行っていたら、また会うことになるでしょう。
 仏教から見ると業の法則はこのように単純明快です。どれを自分が選び取るかが、それぞれ違うだけです。

2022年1月26日 7:53
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おきもち


初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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