他人ばかり羨み、自分の幸せに気づけない
人の幸せな生活や、良い暮らしを知ると(snsや人からの噂)とっても羨ましく激しく嫉妬心を抱いてしまいます。私は4人家族の長女に生まれ、ごく一般家庭的で育ちました。親からは毎日愛され、お誕生日や行事などは必ずしてくれて、やりたい事もできる範囲でやらせてくれて本当に愛されて育った自覚があります。
18歳の頃上京し、大学卒業、就職し働く中、27歳の頃母親の癌が見つかり約3年後に亡くなりました。母は51歳でした。
それからは人生に大きな穴が空いた感覚があり、満たされていない気持ちからなのか
他人がとても羨ましく感じるようになりました。母親の死はまだ受け止めてられておらず、未だに墓参りにも行けていません。
母に最後の親孝行として、ウェディングドレス姿を見せたくて、母の病気が分かってから付き合った人と結婚し、ドレス姿を見てを見てもらい、その結婚式が終わるとその日に母は亡くなりました。
母が死ぬという事は、私の中で人生でありえない事が起きるという事を実感し、それ以来は些細なことでも不安になる事が増えました。
(電車に乗ってる時、このまま事故で死ぬかもしれない、とか、飛行機が怖い、とか、お腹が痛くなりこのまま死ぬかも知らないと思うと過呼吸になり、手足が硬直し救急車で運ばれるなど。。。)
そして今1番辛いのは、他人を羨む気持ちが激しく、自分が嫌になる事です。
仕事もあり、家も買い、優しい夫が居て(仲良しです)、十分幸せなはずなのに、
自分より良い暮らしや、贅沢な生活を知ると、とても嫉妬してしまい、結婚相手がもっとお金持ちだったら、。とか、、離婚してお金持ちと結婚すれば。。。などと考えてしまう時さえあり、同時に夫にも申し訳なく、悲しい気持ちになります。
母親が亡くなるまでこんな気持ちになった事がなく、本当につらいです。
他人と比べず、自分の幸せを感じながら
丁寧に暮らしていきたいです。
母親の死を受け止めきれていない事も
人の嫉みに関係しているのでしょうか。
母親の死の受け入れ方と、幸せを感じながら生きる為にアドバイスを頂きたいです。
長文失礼しました。
どうぞ宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
誰も失わず、得続けていくことばかりが幸せとも限りません。
そんなことがあったのですね。
お墓参りにいけないのは、死を認めたくない気持ちがあるからですよね。突然ともいえる死別は、死をどのように見て 受け止めていったらいいのかわからないまま、時間が止まってしまう。もちろん生活をしているので、時間を動かしているのだけれど、あなたの心は、止まったような状態なのだと思います。
私は毎日毎日お参りをしていますと、どなたかの死が縁となり、手を合わせて生きておられる人と関わっていきます。何年経っても、何十年経っても、その人にとっては特別な死別体験であり、慣れなくて当たり前だと気づかされます。それでも、一緒にお参りする時間は、亡き人の話で温かな時間が流れるのです。お仏壇やお墓に向き合うことは、亡き人に会っていくことでもありますよ。死を受け入れられなくても、亡き人を大切に思う気持ちは、変わらないはずです。それを共に聞かせてもらい、そこに仏法を届けるのが、僧侶の役割だろうと思っています。
みんな、誰かの死を経験していない人はいません。誰も失わず、得続けていくことばかりが幸せとも限りません。
お母さまの死から、何を学んでいくのか。
皆、いつかは死んでいくということ。この世は無常だということ。だからこそ、煩悩(嫉妬や怒り.愚痴)に取り憑かれずに、今ある あなただけの幸せを大切にしていきましょうね。
私もね、何人の愛おしい人を亡くしたでしょうか。だから、亡き人に会うために、話をするために、こうして手を合わせる生き方をしています。仏縁を結ぶことは、いつの日か亡き人に遇っていける日が来る(約束されていく)ということですもの。早く会いたいです。
オンライン相談でも構いません。お母さまの話をしましょう。それが受け止めながら、お母さんと一緒に生きることに繋がりますよ。