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親の宗教で破談

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有り難し有り難し 23

家系で新興宗教に入信しています。
両親は現在まで献金、勧誘や訪問、選挙関係で活動しておらず私自身も小さい頃から信仰心はなく、この年齢まで何も活動等せず過ごしてきました。
これまでにお付き合いをしていた方へは必ず新興宗教関する実家のこと、私のことについて説明をしてきました。
相手や相手のご両親、家そのものとの繋がりになるため、避けては通れない話だと考えていたからです。両親は相手方と私の望むようにすれば良いと話しています。
どんなに人柄が良い人でもやはりこの話を持ちかけると皆様、ショックを受けるようで強く反発する方やしばらく考えた後に別れてほしいと言った方もいました。

私自身ではなく、私の家のことを見て暗い顔で否定されるのがどんどん辛くなってきました。
このまま一生家のことで言われ続け結婚できないのかなとすら考え、悲しくなります。

先日も宗教が原因で破談になりました。判断した相手方も私も悪くないのだと分かってはいるのですが、やはり悲しさと悔しさが止まりません。
こういった時の気持ちの切り替え方についてなにかアドバイスを頂けますと幸いです。

2022年10月6日 13:27

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

(´-`*)…そもそも宗教って人を縛るものだと思いますか?
私は違うと思います。
家族を仲たがいさせるものであってイイと思いますか?
選挙をして政治のハンドルを握ろうとするものですか?
教祖様、上層部がそういうことをやれというのですか?
票集め、資金集めということがメインになるような活動が宗教であって良いと思いますか?
各業界に信者スタッフを入り込ませて内部から組織を思い通りにしようとか徒党を組んで業界を占拠するというようなことが宗教活動といえるでしょうか?
ラベルと中身は別物です。
肩書きと行動は別物です。
あなたの家族や善意の人たちは「実態・裏・闇を知らない」から、純粋な宗教精神で信仰をされていると思っておられるでしょう。
ですが、世の中のチョットおかしな自称宗教団体に取り込まれてしまった人たちを見てください。家族はしばられ、結婚も不自由、他の宗派は悪者と思い込まされ、排他的、攻撃的、信じないと不幸になると脅迫や自己否定をされる。
そんな人を不自由にして、不幸にするものを宗教だと思いこまされている人たちがほとんどです。
あなたはこの世界に生まれてきたたった一人の人間として、まず一度完全に独立・自由な精神を取り戻すべきです。
親御さんは既に染まってしまっているのでしょう。
ですが、あなたはあなたの自由な精神が保障されるべきです。
親御さんも快適な人生の選択肢があります。
ただし、こども(あなた)にまで同じ宗教を強いるのはおかしな話です。それは愛でもなく、自由でもない。自由でもなく、公平でもないということはどんな主義思想・宗教宗派でも同じなのです。
それを否定する宗教はもはや人権軽視・人権否定でしかありません。
よって、すでに家族ですら宗教によって縛られ合う状態なのですから、もっと自由で大らかで公平な光に照らされながら、家族・親子・お互いがそれぞれその宗教に染まる以前の純粋な家族としてお互い話し合いをする場を設けるべきでしょう。
喩えは変ですが、親が八百屋で子供が肉屋であれば、それぞれ商売を始める以前のただの家族としての利権もしがらみもしばられも無い状態にリセットした状態での語らいの場を設けるべきです。
真の宗教性とは宗教で人を縛りません。
ちなみに曹洞宗の宗祖は「曹洞宗とも言うな。禅宗とも言わんでイイ。誰もが幸せになれることが真実だ。」という自由な宗教精神です。

2022年10月6日 14:45
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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