hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

仏様を拝む意味を教えてください。

回答数回答 4
有り難し有り難し 64

仏様を拝む意味を教えてください。

例えば、仏様を一生懸命拝んで合格祈願をしても、
全く勉強しなければ合格することはないように、
お願いごとをするために、つまり私利私欲の成就のために仏様を拝んでも、
意味がないように感じます。
(なお、本人が勉強すなわち努力しないと仏様は助けてくれない、
 と言う人もいましたが、仏様がそんな選り好みをするとは思えないですし、
 思いたくもありません。)

むしろ、私利私欲の成就ために拝むならば、
たくさん拝むことはそのまま欲望の大きさにつながり、
これまた心の安寧という意味では意味がないどころか、
欲望を強める結果にもなってしまいそうです。

これらのことは、例えばお坊さんが、信者など誰かのために拝むことも、
そういう私利私欲のために拝むことになり、同様のように思われます。
(お坊さんには私利私欲なく、すなわち信者の願いが叶ってほしいとは
 思っておらず、 信者の願いを仏様に伝えているだけ、
 ということも考えられますが、この場合、お坊さんがそうする意味が
 よくわかりません。
 お坊さんから伝わった方が、仏様は願いを叶えてくれるということは
 ないように思いますし、仏様がそうであるとは思いたくないです。)

ところが、お坊さんを含め、多くの方が、仏様を拝んでいます。
その際、呪文のような言葉(真言?)や、お経を唱えていたりもします。
その内心はわかりませんが、お寺の絵馬には様々なお願い事が書かれており、
また、お寺ではご祈祷・ご祈願がなされていることからすると、
何らかの欲の成就のためのように思われます。

拝んでも願いは叶わないなかで、
①仏様を拝む意味(祈願以外の意味)は何でしょうか。
②なぜ、ご祈祷・ご祈願がなされているのでしょうか。
③また、お寺では、お勤めとして、朝晩、お坊さんは仏様を拝み、
 お経を読んでらっしゃるようですが、これは、何のためでしょうか。
 (書かれているお経の意味を理解・確認等するためであれば、
  仏様の前で木魚を叩いて音読するよりも、
  自室で黙読すれば足りると思われます。)

なお、②につきましては、宗派により考え方に大きく差があるようでしたら、
御回答いただかなくても結構です。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2022年11月30日 15:36

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏様を見習うため

仏教は、お釈迦様が発見された、悩み苦しみを軽減するテクニックの教えです。
私達も、お釈迦様や仏様達を見習い、悩み苦しみの原因を消したり制御したりするテクニックを学べば、幸せになりやすい性格になります。
サッカー選手を尊敬する子供は、サッカーに興味がない子供よりもサッカーが上達しやすいでしょう。
仏様を尊敬することには、まずは上記の意味があります。
また、悩み苦しみの原因(煩悩)を消したり制御したりするために、精神集中力を養うのは意義があります。
呪文や念仏やお経を一心不乱に唱えたり、仏様のビジョンをイメージしたりする瞑想は、精神集中の訓練にもなります。
また、お経は仏教の教えのテキストなので、テキストを勉強して幸せになるテクニックを学ぶ意味もあります。
さらに、阿弥陀仏という仏様は、誰でも南無阿弥陀仏と念仏を唱える者を極楽浄土に往生させると誓っておられます。(という話がお経に書かれています。)
浄土宗などでは、阿弥陀仏の救いを信じて念仏して極楽に往生することが、悟る(真理に気付いて煩悩を消す)ための近道だと考え、念仏を称(とな)えたり阿弥陀仏を拝んだりします。
お寺などで、仏様を拝み、お経を唱えたりするお勤めは、仏様を見習って仏様の説いたテクニックを学んで、いずれば皆もれなく仏様のように悟って悩み苦しみから卒業したいからです。
なお、仏教の基本は、苦・無常・無我(空)の真理を悟れたら、煩悩が消えて悩み苦しみが消えるという理屈です。
お寺で私利私欲の祈願をしたりお守りやおみくじを売ったりするのは、それをやると人々に喜んでもらえた(バズった)ので、ついつい過剰サービスになったのかもしれませんね。

2022年11月30日 19:52
{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

報恩の行です。

たかが人ひとりの欲なんて小さいものですよ。

ちょっとのお経で大地が治らないことはよく知ってます。

宝くじ、競馬、部活の代表枠、試験の合否。
拝むだけじゃ足りないのは重々承知です。

それでも、体育館に並んだ身体を前にわたしができることは、手を合わせること。

それでも手を合わせる。
ちょっとだけ欲をだすなら、あと少しだけ生きていたい。
血圧も食欲も暴れないでください。
穏やかな暮らしをもう少しだけさせてください。

そんな気持ちで手を合わせています。

欲張りですかね?

2022年11月30日 19:37
{{count}}
有り難し
おきもち

泰庵  一法
「変えるべきは自身ではなく歩む方向」「時間とお金の使い方」「向きが変われば...
このお坊さんを応援する

一切衆生を救わんとする大誓願を各自が持つ。あなたが。

仏を拝むということは何か心の外の思い描いた空想の仏ビジョンを拝むことではなく、自己の本尊=あなた自身の自他を救う清らかな力を拝み、引き出すことです。
あなたは仏なんぞ信じられるかという気配ですが、その疑いや問いの意識は何によって発動しているのかといえば、およそ人間の主軸としている我・我流の意識なのですよ。真実をゆがめる目。
「仏様がそんな選り好みをするとは思えない」と言いますが、逆にお尋ねしますがあなたの描くその仏様とは何者でしょうか。すでに自分で仏や拝むということを勝手に思い描いているはずです。
僧侶が誰かのために祈る行為も、その人たちの内なる自己の本尊、全人類に共通する自己の本来性、その人自身の心の奥底にきちんと❝作用として❞存在する人間本来の純粋な救いのエネルギーとでもいうべき「人を救いへ導く心」を拝んでいるわけですよ。それを別名、菩提心、仏心、本尊という。
あなたは「仏さま」ということを他方に描いているからそれが見えないのでしょう。その理解の仕方が間違っているだけです。あなたの描いた仏様という考えであれば私だってそんないかがわしいものは拝めません。
仏を拝むとは、内なるあなた自身の本来性・純粋な心・菩提心を拝むということ。
誰も救われない間違った理解・考えは打破して自他を救いや安らぎ、より高い人間性へと導く精神を高めて引き出す。その心を念ずれば人間特有のエゴファースト、自分ファーストの意識を根絶できるのです。
祈祷・祈願ということも、本人が本人の身心に内在する神仏の作用・天地自然の法理、発動力・精神力を高めるべく本人も司祭者も一体になって心を菩提心へと向かわしめるのです。
寺のお勤めにはその締めくくりに回向というものがある。
回向とはこの上ない素晴らしい力を自分だけではなく、より多くの人たちにめぐらし向けるという精神です。あなたのその考えでは自分も救われない。世の救いや仏教全体を貶めたり、損ねてしまう考えです。あなたも含め誰も救われない。仏教の菩提心とは、仏や祖師の救済精神・善導精神・人々を助けるエネルギー。あるいは智慧、慈悲といった人間の迷い苦しみを断ち切り、苦を取り除き、安楽を与える力です。そういう精神はいつでも、この世にあるのか?他国にあるか?ない。ないからこそ、それを広めようとしているのが僧侶祈りや誓願、回向であり、拝みの精神というものです。

2022年12月1日 22:45
{{count}}
有り難し
おきもち

先生への挨拶

①初期仏教では、仏様にお参りするのは、修行中のお坊さんに挨拶する延長の、修行を完成させて修行法を教えてくださった先生に挨拶するのだと見ています。
 仏様を、神様みたいに願いを聞いてもらう(もらえない)相手とは見ていません。言葉は礼拝ですが、何かしてもらうために拝むというより、正しい道を教えてもらっているので礼をする(起立・礼の礼と、感謝するお礼の意味と両方)と見ています。
 そういう意味で、朝起きたら礼拝、夜寝る前にも礼拝、となります。先生や親にするのと同様に、その親玉である仏様にもご挨拶する、という感じです。
 挨拶ですから、基本的に願い事はしません。むしろ、先生に見守ってもらって私は人間として成長しますよ、と、心で宣言するくらいの勢いがいいと思います。

②は、基本的にはそれをするお坊さんとお願いする信者さんの願いや欲だと思いますが、初期仏教でも、タダで、祈願は受けていました。例えば遠くに旅行する人が安全祈願に来たら、何しろ徒歩で何日も泊りがけですから、毒蛇毒虫、病気、盗賊などの心配はあります。そういう時は『慈経』を教えてあげて、これを心に念じながら旅行するといいですよ、と勧めます。どう「いい」かといえば、そういう慈しみの心の人なら、なんとなく動物たちも察して危害を加えない(近づいてきてもイライラしない)かもしれませんし、それでも災難になって死んでも、慈しみの心で最後まで頑張っていたので来世が良くなります。

③挨拶の言葉のテンプレですね。自分で毎回自分の言葉で何か考えて言うよりも楽だし、しかもただ頭を下げるだけよりも丁寧だし、やっぱり読経に集中する間、心が落ち着いて定まります。つまりちょっと善行為していることになります。集中を主な目的とする音読と意味の理解を主な目的とする黙読なら、それぞれ長所と短所があるでしょう。挨拶なら、しかし、仏様に対してですからね。読経時間と同じだけ沈思黙考しても善行為は同じかも。しかし、読経のときと同じく、沈思黙考後に、お経の最後にあるような功徳回向の言葉を述べて締めにしたほうが良いでしょう。読経の時はセットでお経の後にあらかじめついているので唱えるのですが、読経以外の善行為の時も終わったら功徳回向すべきです。自分の徳も増えるし、徳を受け取って喜んでくれる生命もいるかもしれないし。

2022年12月1日 13:41
{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

皆様、御回答ありがとうございます。色々な考え方を教えていただきまして、大変勉強になりました。以下、各お坊様ごとに、コメントを書かせていただきます。

丹下覚元様、
丁寧な御回答、ありがとうございます。
私の能力では理解が及ばない点もございましたが、まず、御質問ございました、「「仏様がそんな選り好みをするとは思えない」と言いますが、逆にお尋ねしますがあなたの描くその仏様とは何者でしょうか。」という点についてですが、私が思い描いておりましたのは、仮に、仏様が「人間にはない不思議な力を持っていて、願い事を叶えてくれる存在」であったとして、仏様が、願い事を叶える際に、その人の努力の大小によって差を設けることは、違和感があったというものです(なお、「あなたは仏なんぞ信じられるかという気配」とのことですが、おっしゃるとおり、私は、「人間にはない不思議な力を持っていて、願い事を叶えてくれる存在」としての仏様は信じておりません)。
なぜなら、人あるいは願い事によっては、努力することが困難な場合もあると思われるからです(例えば、個人的には、努力できること自体が1つの能力のように思われますし、また、現代医学でどうしようもない病気など、何ら努力の余地がないものもあると思われるからです)。
仏様というのは他方にいるものではなく、「仏を拝むとは、内なるあなた自身の本来性・純粋な心・菩提心を拝むということ」ということは、思いもよりませんでした。私は、仏様を拝むというとき、仏像という自分の外側にあるものを拝むものと考えておりました。お寺には、色々な仏像がございますが、自分の心を拝むという理解もあるのですね。ありがとうございます。

藤本晃(慈照)様、
わかりやすく教えていただきまして、ありがとうございます。
拝むことは挨拶である、お経などもそのテンプレであって、実際的な効果としては、心が落ち着いたりする、ということは、私にも理解できるものでした。
また、②につきましても、確かに、お経に気が行っていれば、不安になったりすることを回避できそうで、そういう意味で(超越的な力による解決ではなく)、なるほど、と腑に落ちました。
とてもよくわかりました。ありがとうございました。

願誉浄史様、
わかりやすく教えていただきまして、ありがとうございます。
仏教は、「悩み苦しみを軽減するテクニックの教え」であり、念仏を称えることもその1つというのは、そうだったのか!と思いました。
勝手に、例えば念仏については、非科学的な呪文のように思っておりましたが、お経に書いてある考え方を信じる人にとっては、科学的な是非は問題ではなく(なお、科学的にも、精神集中的な効用はあるように感じました)、数多あるテクニックのなかで、当該テクニックを信じ、実践している、ということなんですね。
「悩み苦しみ」が心理的なものであることから、このテクニックにより減少することも十分考えられそうです。
よくわかりました、ありがとうございます。

泰庵様、
端的な御回答、ありがとうございます。(仏様の、でよろしいでしょうか)恩に報いるために、また、相対的に大きくない欲が叶うことを願い、拝んでらっしゃるということですね。教えていただきありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ