AIの台頭、自我の喪失
今 悩んでいるのは最先端技術、AI (人工知能) や VR (仮想現実) の事です。そしてそれを取り巻く社会全体のことです。
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今 SNS などで話題になっている一つ、"AIアート"によって、芸術界隈は炎上しています。AIは今や、技術的にプロ級の絵を誰でも精製できるまでに進化しているので、人間の商業アーティストは需要が激減すると心配されています。絵を描く、という文化も衰退するでしょう。
私は趣味人ですが、幼少から今まで、絵に人生を捧げてきました。障害がある自分に与えられた数少ない得意分野だったので、絵を一つの主軸に人生に価値を紡いできました。
しかし今、その軸が折れたような気持ちになっています。誰でも簡単に絵を精製できるのなら、もう人間の手仕事は必要ない未来を予感しているからです。持って生まれた才能も、何の有利にもならなくなる。
私は絵を描くこと自体が楽しくて好きですが、やっぱり描いた以上ひとに認められたいし同じものが好きな人同士栄えあいたいです。でもAIが芸術活動を自動化、大量生産化できるのなら、創作活動の価値や尊厳が大幅に削がれると予感しています。
私の今までの人生なんだったんだと、無気力になるし、未来が恐ろしいです。
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今は色んな分野で歴史の転換点なんだと、デジタルテクノロジーの時代なんだと分かっているけど、希望を持って受け入れられません。新しいものが出る度に、自分の習慣や生きる軸が崩されるのではないかと強く不安になるし、人間の人格や文化がどんどんAIに移行していったら人間とは何なのか、アイデンティティを見失う気がするのです。
もともと流行りものなどを楽しめず、むしろ不安しか感じないタイプなので、これからどんどん新しい世界になっていく度に不安に苦しまなければならないのかと戦慄しています。
自分が時代に合わないなら、これ以上世界が変わる前に死んだ方がいいのかとさえ思います。もともと希死念慮が強いほうで、それでも自分に出来る楽しみを続けてきたのに、新しい変化にすぐ覆されて、動揺させられて、でも適応していかないと認められない。でも食らいついていく気概も前向きさにも欠けている。
自分の遺伝子の生き残り力の限界なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間としてすごいかどうか
たとえば、昭和の時代からきれいな文字を活字で印刷できる技術はありますが、書道は滅びていません。
江戸時代から大砲で砲弾を遠くまで飛ばせますが、陸上競技で砲丸投げがあります。
つまり、人間が自ら行うことの楽しさや、その技術が素晴らしい場合に人に与える感動は、商業的価値だけでは計れない魅力があるのです。
一方で、フリー素材のイラストが大流行で、役所や企業のチラシや広告、テレビ番組内でさえ、同じフリー素材を使用し、視聴者としては飽き飽きしてしまうことがあります。
各会社や組織に、プロとまではいかなくてもちょっと絵心がある人がいて、いろんな場面で腕を振るっていたのが、フリー素材にとって代わられているのは残念な気持ちになります。
いずれにせよ、あなた自身が描くことを趣味として楽しむことや、「人間のわりに上手いね」という技術力を他人と見せあったりできることは可能ではないでしょうか。
機械に仕事を奪われるのは時代の流れですが、機械に仕事をしてもらえることで、私達人間は余った時間を別のことに使え、より豊かな生活につながると考えられます。
AIを利用して楽しく暮らす新しい生活様式を考えてみてはどうでしょうか。
少子化の日本ですから、機械に仕事をしてもらえることは喜ばしいことです。
お坊さんの世界も他人ごとではありませんね。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
確かに仰る通りです。絵を描く人は、AIに命令するより自分で作る過程の方が楽しいわとよく言います。
でもこれから生まれてくる子供達で、絵を描く道に進む人口は少なくなるだろうし、何より一般大勢の人はAIを使う方が遥かに楽だし面白いしでそっちに傾いているようです。
AIの作品は個性も少なく、作り手個人としての成長もなくで、寂しいです。
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仏教の世界も他人事ではない、そうです。
人物の思考をAIに学習させ、その人物になりきらせ話をさせるサービスがあるのですが、"キリスト"として作られたAIを見かけました。"お釈迦様"として作られ人の悩みに答えるAIがいたらどうなるだろう...と恐ろしくなりました。死者への冒涜になりかねないし、誤解を与えるのでは?
新しいものに対しては、どうしてもそれがもたらすリスクや混乱、悪用の方ばかり気にしてしまいます。ポジティブな付き合い方の方も少しずつ考えていきたいです...
しかし、話を聞いて頂けて少し落ち着きました。ありがとうございました。