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また空回り

回答数回答 1
有り難し有り難し 12

閲覧ありがとうございます。
私は昔から人見知りなとこがあり人間関係もどちらかというと苦手な方です。

私自身考えすぎなとこがあり友達と話した後など嫌われてしまったのでは不快にさせてしまったのではないかと考えてしまい自己嫌悪になってしまいます。

素直になれない性格でそっけないような態度をとってしまい相手の方にそのことを気にしないでほしいと伝えるのですが相手の方はそんなに深刻に捉えられておらず私の空回りになることが多いです。

考えすぎてしまう自分が大嫌いです。

2022年12月25日 1:12

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

🎅メリークリスマス。🎄
ご質問、ありがとうございます。
言葉というものは、どんなつもりで言った・言われたとしても、リアクションは本人次第です。
相手の反応は相手にお任せするしかありません。
だからこそ、誤解のないように「やはらかに・そふとに・ここちよく」お伝えするということが大切ですね。言葉も態度もプレゼント🎁です。
感じの良い表現。相手に深いのない音声、表情、態度。
それらは、作り事や構えごとのない心からうまれてくるものです。
言葉を投げかけるときには相手がうけとりやすいように。
言葉をキャッチするときにはダメージをうけないように分厚いグローブで。ナイスキャッチで。打ち返さないように。🥎
言葉のボールにもストレートや変化球、遊び玉、挨拶、つぶやき、ひとりごと、挨拶、いろいろな球があります。
相手がこちらの言葉のボールを受け取った後のリアクションはこっちでコントロールできません。コントロールできないということは、完全お任せしかできません。それはお釈迦様でもキリスト様でも鎌倉殿でも同じです。
あなたも誰かから言葉を伝えられたとしても、そういう言葉があったというだけ。その言葉に負のリアクションをする必要もありません。悪く考える必要もありません。
相手の反応は相手の自己責任。悪気がないのであれば、そこまで気にしなくてもいいのです。
自分の気持ちを「上手に表現する」ということこそ、人生において最も大切なことなのです。むしろ人間関係とはそれしかありませんよね。
表現が上手に「なりすぎる」ということがあるとすればどういうことでしょうか。
良くしゃべるアナウンサーやお笑い芸人クラスになれば合格でしょうか。
あるいはコンテンポラリーダンスのような奇抜な表現を交えて自分のことを表現する人が上手な表現者でしょうか。\(゜ロ\)(/ロ゜)/
あるいはオペラのように大きな声で自分の言いたいことを言えば、快適でしょうか。
そこまでになる必要はありません。
上手な表現のできる方は無駄がなく、あまりものがありません。
必要な時に必要なことだけをお伝えすればいいだけです。音楽においては休符も沈黙もあじわいです。音がないのもメロディー、楽曲の一つ。音がありすぎても雑。
それは空振りではなく、休符を親しみ、あじわう、次の言葉のメロディーを発するまでの心地よいお休みタイムにすればよいのです。

2022年12月25日 4:04
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

クリスマスに素敵なプレゼントをありがとうございます。

必要なときに必要な事だけ…私は昔から気にしすぎるとこがあるので少し一休みしつつ頑張っていきます。

本当にありがとうございました。

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