執着を手放すべきか、又その方法
執着についての相談です。執着を捨てるにはどうしたらいいのか、捨ててもいいのかという悩みがあります。
私最近は自分が執着のせいで苦しんでいると気付きました。精神的環境に恵まれず。普通の人は与えられるものが与えられなかったり、傷つきすぎたりした故に承認や色んなものを無意識にもとめているのでしょう。悪夢やフラッシュバックにも悩まされています。
しかし、執着に気づいても手放し方が分かりません。加えて、執着を手放していいのかと思います。何故なら私の今までは執着や負の力を動力に努力してきたからです。
努力して這い上がってやる。奪われたものを奪い返してやる。俺に攻撃してくる者を蹴散らせる力をつける。この様に考えてきたからボロボロでも努力出来たとも言えます。
逆にこの執着や負の力を手放したら努力しないかもしれないと思います。しかし、生きていくには努力しスキルアップしないと職を失います。
愚かな話ですが実際そうなってしまっています。そして、少しは成長したのでこんな考えでは社会で上手くやっていけないとも分かります。そう思うと八方塞がりの様に思い、どうせ人間死ぬんだから、ここで死ぬかとも思ってしまいます。
どうしたら、過去の傷を癒やし、平穏に過ごせるのでしょうか?
そして、こんな私は執着を捨てるべきでしょうか?執着を捨てても努力できる方法はあるでしょうか?
自分で決めなくてはいけませんが、何かヒントを下さい。長文になりましたがどうかよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏様になるには執着を捨てないといけませんが、人として生きる為には執着が必要な時もあります。
大切なことは、自分が良い行いをして悪い行いをしない、ということです。
執着の有無に執着しないように。
念仏できるならどちらでも良い
Aに執着し、それに反するBの方向には行きたくないと執着して苦しむ人がいたとして、その人が、
「AでもBでも、どちらになっても念仏すれば極楽浄土に往生できる。だから実はどちらでも良いのだ。」
と安心すれば、平安な人生になります。
南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えて、どちらに転んでも念仏できているならオッケー、合格人生だと思いましょう。
合掌
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
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質問者からのお礼
お二人とも回答大変ありがとうございました。願誉浄師様のどちらでも良いという考えで少し楽になりました。三宅聖章様の執着に執着してはならないという言葉はまさにその通りで耳が痛いお話でした。執着に目を奪われ、視野が狭くなっている自分に気づけました。お二人の言葉を糧に少しずつですが歩んでいこうと思います。