鬼になりそう
いつもご説法くださってありがとうございます
今回もご質問よろしいでしょうか?
僕は介護のグループ・ホームで働いて7ヶ月
になります
僕の人格のなさもありそこまで好かれてるというわけではないですが、みなさんみんな大人の対応を取っていただける職場で、大変過ごしやすいです
僕もそういう態度を取ってきたと思うんですけど
最近資格を取るために休日にも講習をとるようになり、今まで3連勤がさいだいだったのが、実質6連勤になりました。
また利用者さんに認知症でお困りの方がおられ、その人の話をよく聞いてあげなければならず、僕とよく話すし、周りの人があまり話したがらないので、僕に負担が来ます。
傾聴が得意なのでそれはいいのですが、仕事で負担が大きくなりました。
その上で同僚に同じ職場の人のぐちを永遠に言われる方がおりまして、その人が僕のぐちも当然言われてることも知ってるので、あまり良い気持ちにはなりません
でも仕事はすごい真面目な方で、仕方ないのかなと聞いてあげてたのですが、今日仕事の疲れもあって気持ちが決壊しました。
いい職場だし、私も仏教の門前のもの。その人とのことを受け止めてあげたい気持ちもあるのですが、その人が他の人と別のところで話すたんびに、
あーどうせ俺のこと話してんだろうな
って気持ちが湧いてきてすごい冷めた声がでるようになり、話したくないです
どうしたら元の話を聴いてあげようという気持ちになるでしょう?
何がありましたら教えていただきたいです
よろしくお願いします
統合失調症になり7年闘病の末、介護士としてアルバイト採用されました いままでは自分は一流になれないと信じ込み、趣味や仏教に逃げていましたが、最近やっと介護士として頑張ろうと自覚が湧きました よろしくお願いします
冷たい態度をされると気持ちが萎えてしまう 結婚してる美人な人に好意をもってしまう 人に愛されたいばかりに悪口に同意したり、気に入られるような悪口を言ってしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
何でも受け入れるのが優しさではない。仕事優先で、自分を守って
毎日お仕事お疲れ様です。
業務として、認知症の利用者さんのサポートをされていること、またその方のお話に耳を傾けておられること、ありがとうございます。周りの人があまり話したがらないのなら、余計に あなたが話を聞いてくださるのが、利用者さんにとっては嬉しくてホッとなさるでしょうね。
それが、あなたの仕事でもありますから、大変なことでしょうけれど、よろしくお願いしますしますね。
ですが、仕事でも話を聞き、同僚の愚痴も聞かされるとなると、あなたの方が疲れてきてしまいますよね。あなたの心に余裕がある時は、同僚の愚痴も聞いてあげられるかもしれませんが、仕事で疲れているのに、あなたのストレスは増すばかりになってしまいます。
そんな時は、仕事を優先させて、愚痴までは聞かなくてもいいのですよ。「最近疲れていて、あなたの話を聞く余裕がなく。ごめんね」と、うまくかわしましょう。
何でも受け入れるのが優しさではありません。出来ないこと、無理なこと、自分が追い込まれてしまうであろうことは、受け付けなくてもいいのです。自分を守るために、コンディションを整えるために大事なことですからね。同僚は、その愚痴を別の誰かに吐き出すでしょう。同僚には、自分の調子は自分で何とかしてもらうしかありません。そこまで、あなたが面倒を見ることはないのです。
あなたに対して愚痴を言っている時もあるかもしれませんね。それが聞こえてくると良い気はしませんよね。そんな人(同僚)は、どこでもそんな態度なのかもしれません。せっかく あなたが話を聞いてあげていても、愚痴しか言わないのなら放っておくしかありません。あなたは、堂々振る舞えばいいし、仕事をしっかりしていたら、周りはあなたを評価してくださいますからね。
そして、あなたのしんどさは、またハスノハでも吐き出してくださいね。ここではたくさんのお坊さんが耳を傾けてくれますので。一緒に話をしましょう。そうしながら、あなたも心のバランスを保ってくださいね。
固定観念をゆっくりと放下着し、正見を取り戻していく。
拝読させていただきました。
日々、介護お仕事ご苦労様です。
疲れが蓄積されていることから、心に負荷が掛かっていることとお察しします。
介護のお仕事は想像を絶するほど大変であると察知いたします。
さっそく本題に入らせていただきますと、仏教の根本は『慈悲』であり
「悲・・・苦しみを取り除く気持ち」
「慈・・・楽を与える気持ち」
が慈悲であり、その根底には心に"余裕"を多少なりとも保持していく心の環境が必要となります。いわゆる冷静沈着です。
仏教には十善戒という一般的な戒律があり、その最後には不邪見を置いており、九つの起こしてはならない戒律を総括するのが「不邪見」です。この不邪見の中には、日々積み重なる業(行い)が、善悪ともに心の蔵に貯められていきます。
貯められた業(思い)は、邪見を起こし固定観念を作り上げ、相手を偏見の目で見ることへと自己の心が働きだします。
その不邪見を起こさないため、元の自己の状態に戻したいときには、冷静沈着となる自己の凝り固まった相手からの愚痴を言われているのではないかという観念を手放していく思慮が必要となります。
自己を正しく即座に戻すことができないときは、自己(我)を考えずに、相手を救ってあげる気持ちを持つことが手っ取り早くものです。
もし、目の前に事故の現場に直面したときなど、自身が身にまとう衣類が高価なものを着ており、汚したくないという自身への思いが強ければ、目の前の事故に巻き込まれている人を助けることに躊躇するものです。しかし、自身の高価な衣服など気にせず目の前の目的だけを意識すれば、相手側は後々に「危険も顧みずにわたしを救ってくれる気持ちに感謝」を抱くものです。そして相手を寛大は方であるとも感じるでしょう。そのとき相手は、あなたを慈悲をもつ「仏」のような御方だと気づき、あなたの愚痴を言っていた場合、その方は行った行為を羞恥・懺悔が芽生え、あなたに帰依の心が芽生えていくことになります。
少し感慨深くなるかも知れませんが、何かと心で咀嚼していただき、汲み取っていただけましたら幸いです。
とにかく心身に"無理をする行為"いわゆるオーバーワークをすることは、自身に負担となることから、節度に余裕を持てるように働いていくことをおすすめいたします。
合掌
質問者からのお礼
ご説法ありがとうございました
お二人のご説法をよく参考にして、無理のないように、我を解き放てるように毎日を過ごしていきたいと思います
ありがとうございました