【蹲る】ことよりも《立ち上がる》ことを。
『依存心が強く、常に何かに怯えてばかりで世間や誰かの言いなりの自意識過剰な臆病者の怠惰系の人』
にしても
『自尊心と虚栄心だけは異常なまでに高く、常に誰かを差別するか支配するかしないと自分の存在価値を示せない自己中心的な小心者の傲慢系の人』
にしても
あの人たちが共通するのは一つ。
「自分『だけ』が辛い目にあってる」と思ってる、思い上がってる。
自分【だけ!】が辛い目にあってると思っているから責任を一人の人間に押し付けたり、理不尽に便乗して自分の身を守ろうとする。
自分【だけ!!】が苦しんでいると思っているから誰かを否定したり、非難(喚く)したりして差別して、嘲笑して、その場しのぎでしかない自尊心や虚栄心を満たそうとする。
自分【だけ!!!】が孤独だと思っているから何の罪もない人間の足を引っ張って、傷つけ「自分だけじゃない」と自分本位に安心しようとする癖に自分の番になると被害者顔して自分を正当化、基い過大評価したり罵倒したりして
『自分は悪くない!』みたいな顔をする…
そう言う「進む」ことをはおろか、理不尽から「逃げる」こともせず
恐怖から…現実から目を背けて、背を向けて、耳を塞いだ人間。
『蹲った』人間が必ず100人に一人か最悪、社会の上に立っていることがあります。
このような【目先の勝ち負け】や【金と権力に依存したり】や【人に過度に期待する】などの「自分の足で立つことすらしなくなった」人はいったい何故存在するのか疑問で仕方がありません。
どうか教えてくれませんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
厳然たる事実を前に、勝手な思いを手放せるか
ご相談拝読しました。
あなたがおっしゃるような人間は確かに存在するかもしれません。
では、そういう人たちが何故存在するのか?
答えは、
そんなことあなたには関係ない
でしょうか。自分の思いと(実際の)世界の成り立ちは無関係です。「私の思う私にとっての世界」は「私の思い」にとって作られていますが、そうじゃない事実の世界は私の思いと無関係です。
人がそこに存在するのに何か付与された意味があるのか。ないでしょう。
絶対的な創造主たる神が存在して、その神がなんらかの意図をもってその人を創造し、そこに配置したならば、その人の存在にあらかじめ付与された意味がありますが、仏教はそういう創造主の存在を認めません。
あらゆる原因と結果の連鎖が網の目のように広がって、たまたま今この時その存在としてそこに成立しているだけです。
それを気に入るか気に入らないかは事実ではなく、あなたの「思い」です。頭の中の産物です。既にそうあるものにケチをつけているだけなのです。
事実は思いを超えているということです。
もちろん、そうした人たちに憤り、傷つけられ、苦しめられるあなたの心もまた否定できません。あなたの苦しみも、あなた自身も仏教の救いの対象です。
だからといって、あなたを救うために彼らを排除したり否定することを仏教はしないということです。
よくよく考えてみてください。
質問者からのお礼
ありがとうございました。