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実際に死とどう向き合っていますか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 13

以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。

たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。
問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。
私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。

そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。
それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。

前置きが長くなりましたが、
お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。

また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。

お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

2023年3月25日 1:58

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

回答になっていないかもしれませんが・・・

くうさんこんにちは。この度も真摯なご質問ありがとうございます。その求道の姿勢には頭が下がります。また、パニックに陥るなど、切羽詰まった状況が続いておりますことご心配申し上げます。

さて、死と向き合うといっても、私たちは「私の死」を実際に死ぬ時まで経験できませんから、死への恐怖というのは「私の思う死」への恐怖に過ぎません。本当に死と向き合うことが出来るならばそれこそ恐怖心が絶え間なく、まともな状態ではいられないのでしょう。

つまり死への恐怖というのは本能的な必要なものであり、その死への恐怖をごまかすことも私たちが生を保つために必要なことなのだと思います。けしてそうした感覚は嫌い、遠ざけ、排除すべきものではないということです。

「死への恐怖」が問題なのではなく、「死への恐怖を(過度に)問題にすること」が問題であるとも言えるでしょう。

幸か不幸か、私たちは「私の死」は体験できなくとも「他者の死」を体験する機会があります。今この時は誰かの死後の世界です。私が他者の死を虚無と受け止めるならば、私の死も虚無が想定されますし、私が他者の死から永遠のはたらきを受け取るならば、私も死後に永遠のはたらきとなっていくことが想定されます。そこに問題解決の糸口があると思います。

そして、くうさんは以前に存在の根源的な意味や宇宙の仕組みなどわからないことが恐怖、なぜ私がここにいるかわからない、そしてわからないのに死んでいかねばならないことがまた恐怖という様なことをおっしゃっておりました。

それはとても大事な事実です。でも、わからなくともここに存在しているのも事実です。私というちっぽけな存在が宇宙の真理を解き明かすことはできずとも、私もまた宇宙の真理の一つであるのです。

「私が思う私」や「私が思う私の死」へのとらわれが破られたとき、わからないままに宇宙の真理に身を委ねていけるような、恐怖を抱えたままに恐怖を超えていけるような救いがあるのだと思います。

どんな感覚も間違いでも消すべきものでもありません。消そう消そうとするとよりパニックになるかもしれません。

私が嫌うこの感覚も含めて私なのだと、宇宙視点の私をイメージしてお念仏を称えてみてはいかがでしょうか。

2023年3月25日 15:09
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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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安心なさって生きて下さい

拝読させて頂きました。
あなたが深く死の恐怖を抱えて生きておられることを読ませて頂きました。あなたの今の状態や思い全てはわからないですけれども、あなたが死の恐怖に思い悩んでおられることはとても伝わって参ります。あなたのそのお気持ち心よりお察しします。
私達は大なり小なり死の恐怖を無意識のうちに抱えて生きております。できるだけ死なない様にと無意識に心がけて生きています。私達は生きものですからそうすることやそう考えるのも当然ですよね。あなたがそう思わざる得ないこともとてもよくわかります。
私も若い頃に自分や大切な方々の死におびえ恐れて何もできなくなってしまったことがあります、死の恐怖に恐れおののき布団かぶってずっと家から出られない状態、つまり引きこもり学校にも行けなくなってしまいました。精神科にもずっと通っていました。私はその死の恐怖を克服することはできませんでした。
そうしてずっと人とも会わずにいるとふと、今生きていると言えるのか?という疑問が浮かんできました。こうしていることは死んでいるのと変わらないのではないかと思ったのです。
私の心の中にはいつも死の恐怖もあれば、フッと死んでしまいたいという思いから共存しております。紙一重というか裏表の関係なのかもしれません。そんな自分をゆっくり受け止めていく受け入れていくことがとても大事なことなのではないかと私は思います。
いつ死ぬかは私にはわかりません、ですが確実に死に向かっている自分はいるのです。それは今次の瞬間かもしれませんし、3日後かもしれませんし、5年後かもしれませんし、20年後かもしれません。死を感じながら今を生きていくことで様々なことやご縁をとても尊いと感じます。
得難いこの命を与えられて出会い難いご縁に巡り会い、尊い仏教の教えに出会えたことも本当に有り難く思います。死を迎えても必ず仏様が導いて下さり、恐怖や苦しみを超越していくことができます。
恐らくあなたはあなたのこれからの人生で試行錯誤を繰り返していくでしょう。どうか安心なさって下さいね。あなたはあなたの人生にしっかりとお向き合いなさって生きて下さいね。いつの日かあなたが死を受け止めていくことができるでしょう、恐怖を乗り越えていくことができるでしょう。
あなたがこれからの未来を心から安らかに健やかに生き抜いていかれます様に切に仏様に祈ってます。南無阿弥陀仏

2023年3月25日 8:08
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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

Kousyo Kuuyo Azuma 様
お礼が遅くなり申し訳ございません。
今回に限らず、いつも優しいご回答をくださり、ありがとうございます。
怖いからと引きこもっているのは死も同然とのこと、私も同じように考えました。社会と繋がっている方が世間体としても精神的にも健全ですし、実際に私もそうしています。
仏様の導きは、死後だけではないのですね。私がこの恐怖に対し、何かしらの形で安心を得ることが出来るという事へも、仏様のはたらきがあるというのは、嬉しいことです。
また、私は死を意識して初めて仏教を学びました。確かに恐怖克服という煩悩によって仏教を学び始めましたが、得た知識や安心は決して死に対するものだけではなく、人生にも活かされています。それも、仏さまの導きなのかもしれません。
一日一日を大切に、怖いけど、受け入れられる日が来ると、仏さまからの導きを信じて生きます。
この度はありがとうございました。今後ともよろしくおねがいします。

吉武文法 様
お礼が遅くなり申し訳ございません。以前よりご回答頂いており、本当にありがとうございます。いつも真摯にお答え頂き、大変勉強になります。
吉武様が仰っていることは、理論的かつ現実に則しており、理屈っぽい私にとってはとても納得のいくものでした。一言一句、「その通りだな」と思いながら読ませて頂きました。
ただ「死の恐怖」に関しては、理屈よりも感情が勝ってしまうのです。理屈が通っていて頭で納得しているのに、「でも怖い」のです。自分でも意味がわかりません。でも、多分これが所謂本能で、排除すべき感覚ではない…ということですよね。
「「私が思う私」や「私が思う私の死」へのとらわれが破られたとき、わからないままに宇宙の真理に身を委ねていけるような、恐怖を抱えたままに恐怖を超えていけるような救いがあるのだと思います。」ここの文章の通りになりたい、と心から思います。
恐怖を抱えたまま安心できるのでしょうか。つべこべ言わず座禅や念仏などの修行に取り組むことで、急に体が理解できたりするのでしょうか。実感って、難しいです。

なんというか、自分でも、「変えられないことを変えようとしてる」感覚はあるんです。でも不安で怖くて、完全に安心したいという欲望がある。
この欲望をどうしたらいいのか、自分でもわかりません。ただつらい、という気持ちだけが募ります。

私の嫌いな感覚や感情を抱えている私を認める、ほんとに難しいです。それでもとにかくイメージしてみます。わからないけど、立ち止まっていても何も変わらないですもんね。

長々と愚痴を書いてしまいすみません。
この度はご回答ありがとうございました。今後ともよろしくおねがいします。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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