老い支度
事あるごとに両親が「老い支度」と口にします。父親は次男であり まだお墓はありませんが「お墓はいらない、海に散骨して」と母親は言います。父親は何も言いません。おそらく私と母に気を使っていると思います。
私は祖母の葬儀で骨を拾ったとき、肉体がないという感覚が 言葉では表せない何か、空洞のような感覚がありました。「祖母はもう、いないのだな」と認識させられました。
両親の散骨は、私が寂しすぎて嫌なんです。
供養とは、忘れないでいてあげることが大切だと言葉ではわかっていますが、両親の散骨は 寂しすぎます。
気持ちを母親に伝えても、「お墓はいらない」というだけです。
私は 両親の気持ちを尊重してあげるべきなのでしょうか。
どうかアドバイスをお願いします。
見栄を張ってしまう
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それほど人は強くない
しかこ様
なごみ庵の浦上哲也と申します。
以前は死について話すことを「縁起でもない」と避けていましたが、ここ最近は「終活」という言葉もすっかり市民権を得て、雑誌やテレビでも、葬儀はお墓の特集を組むと評判がよくなるそうです。中には終活専門雑誌なども出ているぐらいです。
そういったご時世ですから、ご両親も事あるごとに「老い支度」について口にされるのでしょうね。そしてお母さまは、ご自身のお骨を散骨して欲しいと仰っているようですが、しかこさんご自身としてはそれを寂しいと感じていらっしゃるのですね。
10年ほど前にお寺によく寄せられた相談は「散骨したい」というものでした。しかしここ数年増えているのは「散骨してしまったが、手を合わせる場所が無くて苦しい」というものです。様々な事情があるのでしょうが、お骨を全て散骨してしまい、その結果手を合わせる対象が無く、遺族が「精神的な危機(スピリチュアル・クライシス)」を迎えてしまう例が少なからずあります。
また、やはり様々な事情で何の儀式も執り行わずに火葬のみした遺族が、「やはり法要をしてもらいたい」とお寺を訪れるケースもありますが、これも同様の現象かと思います。多くの人は、何も無いところで故人を偲ぶほど強くなく、また何も儀式をせずに済ませられるほど強くない、ということではないかと存じます。
しかこさんのお母さまは何歳ぐらいでしょう。また健康情態はいかがですか。これが80歳を超えていたり、あるいは重い病気で余命宣告をされている上で「散骨」と仰っているなら、見上げたものです。でも60歳代ほどで仰っているなら、今後考え方が変わる可能性が高いと思います。
いずれにしても葬送の儀式やお墓は、故人ではなく遺族のものです。もし万が一のことがあっても「故人の遺志だから」と安易に従う前に少し考える時間を持つべきです。亡き方も、自分の意思によって子や孫が苦しむ姿を見たいわけではないでしょうから。
◎お礼を拝見しました
お母さまの思いも大切ですが、しかこさんのお気持ちも大切です。
例えば散骨するにしても、一部を分骨して手元に取っておき、しかこさんの気持ちが落ち着いたら残りを散骨するのも方法のひとつですね。
ご両親が元気な時からこうしたお話が出来るのは健全なことだと思います。皆が納得する落とし所が見つかることを念じています (^人^)
質問者からのお礼
浦上様
お返事ありがとうございました。
両親は還暦を迎えたばかりですが母は自分の父親を早くに亡くしているため、また「長生きはしたくない」と言って身辺整理をしているようです。
手を合わせる対象が無く、遺族が精神的な危機(スピリチュアル・クライシス)を迎えてしまう。
とありましたが おそらく私は当てはまります。
葬送の儀式やお墓は、故人ではなく遺族のものなのですね。
本人の意見、意思をい尊重するばかりが良いとは限らないことを知り少し心が救われました。
もう少し両親と話し合い私の気持ちを伝え お互いが納得した結論が出るように日々大切に過ごしていきたいと思います。
ありがとうございました。