ユーチューブのネズミ駆除の動画回答受付中
最近おすすめに上がるようになりました。ネズミの残酷な駆除動画。害獣、疫病の原因のネズミ、罠に引っかかると水責め、アルコール攻め、刃物で駆除される動画のコメントには、「スッキリする」とか「音がいい」とか。かわいそうと嘆く方も少々お目にかかりますが「ネズミは害獣だ」、「被害に遭っていないから分からないのだ」、「ネズミは殺していいのだ」と強く反発する者も。ネズミにも仏の性があるのではと心が叫びます。ネズミはネズミとして全うしていることや、ネズミにも尊厳があり、かつ尊い命であること。ネズミを殺すことは小殺生戒。ここまでは浅学非才な私でも知るところです。ネズミが疫病伝染や農害の原因なら人間は殺人、窃盗…など変わりないではと強く怒りを感じます。この強い怒りがあって落ち着かず、常に敏感に反応するようになりました。怒りと疲れが今は蓄積しております。動画の見世物として、命を無益に殺すことはどうも許せない。駆除のためなら覚悟をもって潔く殺せと思うのです。この怒りをどう整理すればいいか悩んでおります。見世物としての殺生、これは楽しさか快楽か。彼らは無知なのか。私には理解しかねます。どうすれば心を落ち着かせれるのか教えてください。
お坊さんからの回答 1件
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自分がされて嫌なことを他者にしない
「なぜ殺してはいけないの?」
という問いに対して、釈尊は、「あなたは殺されてもいいの?」と反問します。それで相手も、「ああ、意味が分かりました」と納得します。
現代の屁理屈社会では、おそらく、「自分が殺されるのは嫌だけど、この害獣を殺して、何がいけないの?」とさらに言われるでしょう。あるいは「論点ずらしだ~」とか。
生き物はみな生き続けたい、死になくない、ましてや誰かに殺されたくないという生存本能で生きています。自分のものを盗まれたくないという気持ちも、自分が生きるために必要と思って貯めているものだからです。そういう希望を他者が奪っていいわけありません。
その自分の気持ちに当てはめて他者の気持ちが分かる人は、誰かが殺される場面は見たくない聞きたくない知りたくないのです。鈍い人は、自分が殺されない立場にいれば、他者を殺すことに平気です。しかし戦争に行って「殺してもいいけど殺されても文句言えない」対等な立場になると不平不満が出るかもしれません。
現状、あなたは他者の気持ちが分かる人で、周りには鈍い人もいます。仏教的には、まず自分だけは他者を殺さない・傷つけないぞ、と頑張る。
次に、自分の周りにそのような場面があれば、やろうとしている人の気持ちも考えながら、良くないことだと教えてみる。それを受け入れるかどうかは相手次第です。あなたの責任ではありません。
最終的には、一切衆生がお互いを傷つけず殺し合わない生き方を心で願い、しかし遠く離れた場面での様子がネットで見られたりしますから、自分は見ないぞ聞かないぞ、と、それを閉じる、のが仏教的なやり方です。
自分が正しくても、人それぞれ考え方や立場があります。環境運動家みたいに破壊するのではなく、相手の立場も考えながら、自分が正しい教えを学び、他者に上手に伝えながら動くことが仏教的だと思います。